分からないけど分かる。

『○○したことがない私には、何故○○してしまうのかわからない』
と、冒頭で述べた後に、いくらその事について考察しようとも
既知の外からの言葉でしかない以上、
リスクを考慮していない為、何の担保にもならないのではないか。
このような『気持ちの分からない人』による考察は
問題の本質を思考する、手助けにはならないと思うのだが
それでも、書いてしまうのは
『○○してしまう理由が分からない』ポーズで、格好付けて見たけど
ホントはすげー分かっちまうのよのさ。
でも、それが格好悪いと分かっているオイラの照れを
スマートに伝える、クールなぼくちん。
とでも、言っているのだろうか?ん?


枕に『分からないけれども』と来たら、本文はほぼ批判・否定だ。
それは、その根拠と共に
この後に毒づく自分へのリスクマネージメントに他ならない。
そのような心構えの方に、問題の本質を語る資格があるのかどうかは、
その問題によって、読んだ人が判断すれば良いのだろうが
少なくとも自分には、
『信用ならない文章をこれから書きます、よろぴく』
と読めるので、著者や管理人への信頼度を下げてしまう。
それこそが、著者や管理人が望んだ結果なのだろう。
逆説的に言えば、
見た事も無い人間を相手に、信頼を勝ち取る為には
まず自分が、身をもってリスキーな態度を取るべきだ。という事。
しかもwebなど、言葉でのみのコミュニケーションの場ならば
保身のような言葉使いには、細心の注意を払うべきであろう。
とは言え『まいどバカバカしいお笑いを一席』興じる方もおられ
謙遜と言う美徳を、枕にそっと添える
心遣いの場合も往々にしてあるので*1
「自分には分からないが」と書いてあるからといって
その後を読んでも意味ねーよってな訳ではないのですが
結果や、薄っすらとした願望に寄り添う様に
言葉使いを利用していきたい、のであるならば*2
自己像に伴なう保身は、狡猾に演じ分けて然るべきである。


をー、自分が書こうと思ってた事と全然違う答えが出た。

*1:自分は文章の中にトラップを仕掛けてある時に、使わせてもらった事が数度ありました。その時は、申し訳無い気持ちをそこで表していました。

*2:つまりBLOGが自己表現なら