アイドルブームと子育てのアウトソーシング
今年のアイドルブームを眺めていて気になった話として、アイドル消費の多様化が外に認知され出した事がある。その中でも、揺るぎない勢力だったベタな擬似恋愛が接触/認知だとするならば、音源/在宅(Ust)、ライヴ(Ust)/コール、振りコピなどなど、アイドルおたくとイクォールで結ばれるイメージがより一層広がった。その中でも、擬似親子消費について少し考えてみたい。
例えば今年も多くのスキャンダルが、俗に言うアイドルにかかわらず、憶測を含めファンを悩ませたが。上に書いてある通り、消費の形態がどんどん増えている事で、スキャンダルとの距離のとり方もまた多様化した。が逆に一人ひとりのファンとアイドルの距離は、握手会の例を出すまでもなく、ブログやTwitterで話しかける位変化し、また一人ひとりのファンが自分のアイドル消費を公や直接本人に表現する手段も多様化した。つまり、ファンの怒りや憎しみもまたアイドルに届きやすくなった。
一人でもお父さんはウザいのに、何万人ものお父さんに見守られ、干渉され、説教される辛さは中々経験できないかもしれないが。素人でもブログが炎上したり情報サイトで取り扱われ、急にその立場にぽーんと投げ出される可能性は常に秘めている。アイドルオタに関わらず、誰もが自分もアイドルであることに無自覚ではいられやしない。アイドルを覗いている時、アイドルもまた自分を覗いているのだ(?)。
年頃なんだから彼氏くらいはっていうお母さんは、この擬似お父さんとの間に入って「まあまあ」と守ったりはしてくれない(その話はお母さん消費とジャニーズ/ヴィジュアル系の時に)。やはり本当のお父さんとは決定的に異なるのだ
逆にアイドルがアイドルのオタであることを自称し、キャラ化することは当たり前になっているし、アイドルとファンの境目は事実かなり曖昧になっているといえる。
こうしてアイドルとファンの関係を、一方的なお父さん消費と見なおした時に、カレログも、Ustも、アーカイヴから過去のプリクラ掘るのも、それに対するコミットの仕方や態度が違うだけで、根っこにある動機は同じなのかも知れないと思うに至った。
例えばお父さんは、娘の安全の為なら後ろめたさを厭わず、日常の監視に(擬似的であれ時間を)課金しているということなのではないか。課金さえすれば気軽にコミットできるし、アイドル個人を傷つけない限り(多少周りの空気を悪くした所で)決してイケナイ事でもない。だがだからこそ、こちとら金払ってるのに(父にとっての)安全(つまりセックススキャンダル)が保証されなかった事に憤るのではないか。
誤解を与えてしまったとしたら申し訳ないが、これはキモオタうざスwwって言いたい訳ではなく、むしろそんな人に限って(無自覚に)芦田真奈やダルビッシュやmixiの擬似お父さんだったりしている訳で。つまり、アイドルだからとか、おたくだからとかいう話ではなく。今起こっているアイドルブームは、アイドルじゃなくて、貧困の時代の子育てブームなんですよね。
話は少し変わってしまいますが、このアイドル消費(の一形態)=子育てのアウトソーシングという話で、孤児院へのタイガーマスク運動を思い出した。変な意味じゃなくて、貧しい子供を養育し、写真や手紙が送られお父さんになるっていうのも、アイドル文化の文脈を借りると見え方が随分変わって見える。もしかすると、最もエクストリームなアイドル事務所はあしなが育英会かもしれない。CDや写真集っていうマテリアルに対価を払っているワケじゃなくて、パラメータの回復時間を短縮するように、アイドルと共有する時間に課金するシステムだから、何枚も同じCDを買うという言い換えも出来るのかもしれない。課金には上下の際限がなく、誰が偉いとか○○だからダメだとかいった縦割りの関係性をキャンセルし、同じものを楽しめるといった時代の空気を捉えているといえる。
ちなみに、K-POPは外人だからか成人感があるからか分かりませんが、そういった不安を課金で紛らわす擬似親子関係を築き辛いイメージがある。言い換えれば、出来上がっている作品が、中の人間の不祥事云々によって、価値が上下しない。その代わり物語にコミットして操作(プロデュース)している感覚が薄い部分もあるかもしれない。
そういう意味で国外を作品、国内をゲームと見ることも出来るかもしれないが。ここには韓国人の(擬似的)お父さんの目線が抜けていて、韓国にも熱愛への義憤や過去の恋愛をググる文化はあるわけですけどね。