モテたくて…armylookremix

全ての人に椅子を、用意する必要はあるのか。そこに居たくない自由は?

以前書いた話しで、
(http://d.hatena.ne.jp/ATOM-AGE/20051017)
私が「モテ」の定義を、何故
「不特定多数からの好意」
と捉えたかについて補足します。
非モテ」が
「誰でもいいから、僕を好きといっておくれ」
「誰か、僕を認めて下さい!」
と望み、念願叶って、複数の人から好意*1を持たれた時。
その誰かの中から、一人を選ぶのではないか。
一人を選ばない場合、
「僕を好きといってくれる人、全員とLOVEだよ☆」とか
「じゃ〜君と君。かわいいから、一緒にいて下さい」
のように、なってしまい*2
折角、望みが叶った途端に
非モテDQN」になってしまう。それは心外だろうし。
そうならない、自信も「非モテ」の方なら、あるのではないだろうか。
それならば、非モテの方の、いい訳をとっておく方法として
「不特定多数からの好意」
という、言い方が
「特定された個からの好意」
を、際立たせる為にベターなのではと考えた訳です。

非モテに限らず、万能薬なんて存在しない。

私の中では
非モテ」はDQNの予備軍だお☆
と、今後ネット上で、叩く人が出てくる前に
予防線を張る行為としても
この言い方で、問題無いと思っていたのですが。
どうしても「モテ=非モテ以外」に
固執しないとダメなんでしょうか。
個人的には、そういった暴力的な区別は
一般論に、し辛いという印象があるのですが。
元々、一般論にするつもりが無いのに
ほざいているのなら、
何様のつもりで、自分を「非モテ」と定義しているのかも
分かりかねてしまいます。*3

自分勝手に生きると言葉に出す必要は無い。

世の、自分を非モテと感じている人の心は
当たり前ですが、全員別々です。
トラウマになるような体験を
個別に、それぞれのシチュエーションで経験し
どうしようもなく、人格が壊れたり
実際、体に異常をきたす人も、当然いるでしょう。
そういった人、各々が、二極に相対化されることで、
俺は俺である。その上で、限りなく自分を愛している
といった位までに、存在価値や、自己を形成できるのならば、
それが、最も冴えた、賢いやり方なのかもしれませんが
そこに至るプロセスも、千差万別な以上
暴力的な、区別は
声を大にして叫べない、自分を非モテと感じている人を
一般論で、著しく矮小化してしまう恐れを孕んでいる、と思うのです。

言葉にした時点で、それは相対化されてしまう。

勿論、俺の言っている
「モテ=不特定多数からの好意」や
「特定された個からの好意」を
一般論として語るつもりはありません。
そうではなく、言葉にならない言葉を、無数に増やし*4
自分は一般論で、相対化されるような存在ではない
というスペースを、開けておかないと。
声の小さい存在が、余りにも可哀相ではないか
という、俺個人の方法論の提示の枠での問題です。

*1:便宜上の存在肯定として

*2:極端に書いてますよ。二人以上と同時に付き合うとか、非モテの発想ではDQNなのでは。との仮定の上で

*3:声が小さく、自分を非モテと感じている人を、苦しめる暴力的な区別の仕方に俺には見えます

*4:少なくとも二極化は、少なすぎる。