ROOKIESと京都教育大学事件 -徹底した他者不在-

ギャル文字は、友情や仲間といった少数単位の連帯感を概念的に設定している故に起こりえるもので、アニメで話題のフレーズやネットであっても同列にあり、同等に冷やかな印象を持ちます。同種の集まりが、人への迷惑があってでも、絶対的なモノへの信頼が尊重され、公の場であっても自分を見失わざる終えない行動を取る。私はそんな精神的な貸し借りで尊重された連帯感はいりません。


と以前自分は書きました。
そしてこちらは、ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル内、シネマハスラーというコーナーのROOKIES評です(文脈を編集して此方の意図に合わせているので、宇多丸の感情とブレがあります)

こいつらが身内どうして怒鳴りあったり泣き合ったりしてる間、相手チームは徹底して映さないんです。見ないことになってる演出なんですよ。つまりこれは、ニコガクチームの絆が強まれば強まるほど、他者とか外部とかの存在感がどんどん希薄になっていくという、演出法をとっているわけです。他者とか外部が無いわけですから、当然のようにスポーツと言う他者との駆け引きや勝負といった、ゲームとしての面白さみたいのは背景になってしまう。相手校の顔を、記号的エースや監督を除いて、顔すら映さないんですよ。こっちの夢が叶うと言うことは、相手の夢が潰れるってことですよ。ところがこの映画だと、ニコガクが勝った後は相手チーム自体写らなくなるんです。存在しなくなるんです。この映画は意図的に、他者とか外部って言うものを無視する方向に演出は向いているわけです。つまり今回の劇場版は、普通の映画と表現しようとしているものの質が違うんです。葛藤とか、他者、外部とかを乗り越えるドラマなんてものはね、むしろ不要だっつってんですよ。ホモソーシャル的な馴れ合いの心地よさだけを、予め共有している観客だけが、あのTVでやっていた心地よさをぬくぬくと再確認出来ればそれでよし。という、つまり、一見さんお断りなんてもんじゃなくて、家族以外お断りみたいな、排他的な作りになっている。これは画期的な割り切りなんですよ。


例の京都教育大学事件の時、mixiに書き込まれた加害者を庇護する書き込みについて、何か書く方がいいか迷っていた所、上記したようにシネマハスラーROOKIES評にて、書こうと思っていたことと、関連性のある話をされたので、簡単にまとめようかと思います*1
まず勘違いして欲しくないのですが、間違った意識を助長するくそ映画、みたいな事を言いたいわけでは絶対ありませんし。連帯意識が強いが故、排他的なROOKIESメンタリティが、被害者よりもレイプ魔を守る意識を作る、と言いたいわけでもありません。そういった固有名詞にレッテルを貼る行為が、同じ様に排他的メンタリティを量産してしまうのは想像に容易い。むしろROOKIESすげーっす


演出が、ファン心理を掬い取りながら、元ヤン野球部メンタリティの表現にまで消化されている。という構造が凄まじい。例えば仮面ライダーディケイドは、ライダー商法をトリビュートしたコンピレーション作品で、演出はおろかディケイドの造形にまで消化されていると読めば、ROOKIESがやっていることは、ヤンキーを嫌いなおたくに伝わりますか?複数仮面ライダー電王の映画版を愛でているのなら、ROOKIESを愛する人がいることも分かってあげて欲しいですが。トライブごとの関係性が途切れている昨今、難しいかもしれません。それとROOKIESも電王も女性消費文化くくりなのかもしれないので、おたく非モテ男の共感は難しいかもしれませんが、個人的には、クラナドだろうが、とらドラだろうが、似たような気がします。


もちろんこれを材料に、京都教育大学事件やROOKIESを見て泣いてる奴やギャルサーやアニオタサークルを咎めたけりゃ、やりゃいいんですけど、それは偏ったトライブの傾向ではなく、自分にも跳ね返ってきますし、固有名詞に張り付くメンタリティではないので、排他性そのものへの畏怖というものに成らざる終えないと思います。普段、やれやらせだ、やれマスゴミだ言われてるTVの方が、むしろ住み分けをあっさり飛び越えるし。TBSは見るけどテレビ朝日は見ないという人は余り居ない。その意味でROOKIESや平成仮面ライダーなんて、全然健全な方だと思います。


京都教育大学事件は非常に不愉快な例えで、和田さんや、麻原彰晃や、ホリエモンのような象徴に悪意の全権を委ねない(委ねられない)所が、非情に気味が悪い。ROOKIESや仮面ライダーが面白いかどうかはともかく、現代的だと思う一方、vipだろうが、まとめサイトだろうが、ギャル文字だろうが、やっぱり俺にとっては、なんとなく気持ち悪い。

では、抗拒不能ならしめて猥褻を為したる者は、被害者が訴えたり、警察が立憲したらもう準強姦罪に該当するのですから、そもそも犯人を庇う事は、即ち自分に犯罪者の片棒を担ぐといったレッテルを貼られる恐れを、自己責任で引き受けていると取られかねないのに、何故そこまでして庇おうと思えたのか。そして何故、被害者という赤の他人には反応できなかったのか。


例えば、経済的な理由によって生育環境が多様化して、みんなが同じテレビを見て、同じニュースで反応することは出来ない。それは大前提が無く、ヤンキー仲間やアニオタサークルやママ茶会や、小さいトライブ内で見られる番組だけにしか話題に出来ない状況がある*2。数十年前辺りから、メディアよりも口コミが強くなったという言葉を信じるならば、口コミに存在する共通の大前提や、この人はこういう人だという信頼の担保で、文脈を共有できることにあると言える。だから「京都教育大の男子大学生が準強姦罪を犯したとニュースがいっていた」『そんなの関係ない』のだ。文脈が共有されてない中でニュースが流れたとて、そんなものに共感など出来なかったのだ。


俺はニュースで犯人の顔を見て、ひと目でどんなトライブに属しているか想像出来ないような特徴の無い、有り触れた容姿に畏怖しました。どこにでもいる大学生が、どこにでもいる主婦が、どこにでもいるあなたが、人への迷惑が前提になってでも、信頼した仲間を守るという形で力を行使しうる。これは、誤解を恐れずに言うならば、どっかの人たちが信じて疑わないゾーニングの結果ですよ。そういった意味で、広告主である大企業とジャーナリズムが合わさる事で、様々な問題を引き起こす母胎と成っているとしても、テレビの方が全然健全だし気持ち悪く無い。


ただ、主体的にテレビを読み解くリテラシーの教育はオトナにこそ必要だ、という議論は昔からなされていて。例えばゆとり教育は、今完全に失敗作として忌むべき対象になっているが、最初に有識者達が求めたのは、ゆとり教育を通して教育者のリテラシーを徹底して底上げするというのが目的だった筈だ。だが、多くのメディアや実際に教育制度を改変した人間が教育という言葉に引きずられたのか、なんか利権がどーしたとかあんのかしんないけど、学校教育カリキュラム、すなわち子供達にばかり目が行き、そもそも大前提だった筈の先生のレベル向上が、御座なりになった事が問題で、その教育を受けた子供にレッテルを貼るなんて言語道断、筋違いではないか。って何の話だこれ。いや、ゆとり教育ディスなんてくだんねーことしてても、教育者の徹底したリテラシー底上げ、ひいては教育学部カリキュラムなどへの第三者のメスは入らないままなんじゃないかなーって。ごめんこれは流石に想像にすぎる。


http://d.hatena.ne.jp/FUKAMACHI/20090724

*1:ヤンキーという言葉こそ用いていませんが、勿論ヤンキーのメンタリティは念頭に置きました。ROOKIESに関しては、言うまでもなくヤンキースポ根です

*2:しかし昔は違う訳ではなくて、昔は世間が広かったのが、世間が狭くなっただけともいえる