事件がアプリケーション化する

秋葉原で起こった事件を以前書いた
コミュニケーションはアプリケーション化する
(http://d.hatena.ne.jp/ATOM-AGE/20080308/1204962657)
に代入してみたい


加藤は抗えない環境や顔が、運命的に与えられている
と感じられるような経験を経ていたとして
もしセカイへの怨みを放出し、
それを共有してもらえる存在や場があったとしたら、
また、誰もが共有出来る程の耐久度を持った言葉を発見していれば
責任転嫁をして、マスゴミだとかカスラックだとかいって
一定の満足度を得ることが出来たかもしれない。
しかしそこで加藤が『自分が悪いのは○○のせいだ』
と言ったところで

陰謀論であったり。
「努力が足りない」であったり。
デリカシーの無さであったりと、
言わないというよりも言えない状況があるかと思われる。

それは現実であってもネットであっても。
どんどん通用しなくなってきていた。

現代の男の子問題の中核は
ナルシスである事に自明である必要があるのではないか。
〜中略〜
私の話を聞いて欲しいが、
それが誰にとって有益か明確でない為、誰にも話せない。
何故、人は人の話を聞かないのか。
こんなに話したい人、即ち物語が溢れているのにもかかわらず、
物語に乗る人、即ち話を聞く人は絶対的に少ない
〜中略〜
運命史観からくる、
一発逆転といったメンタリティが起因している

加藤がそこまで自分の問題に拘泥してしまった背景は
想像でしかないのだが、悲惨なものだっただろう。
しかし、自分が自分の問題に囚われている事に
より意識的でいるべきだった。
秋葉原で何が何でも大量虐殺を行う。
といった彼にとっての答えは、自分探しだったのだろう。
また携帯で打たれた社会や環境や恋愛至上主義への憎しみを
聞いてくれる人間など、ほぼ存在しない事は
加藤の問題だけに留まらず、
運命史観からくる一発逆転を誘発する、起爆装置として
社会設計全体の問題として存在していると考えている。
そこに意味は無くても、有益でなくても
人の話を聞くと言う行為に、
セーフティネットとしての可能性を感じている。

ジャニーズやヴィジュアルのハードルの高さが
イケメンに生まれたが故の特権性によって切り捨てられてしまう
といった目線で、非モテ脱オタにとっては、
まったく実用性を伴ってはいなかった(そう見えなかった)

自分はこの後に
そんなにハードルも高く無くなってきている事を主張しているが、
加藤にとっては、自分のツラのポテンシャルの低さに
絶望を感じていたのかもしれない。
しかも加藤のフィールドに近時していたと言われている
秋葉原の文化でさえも

オタクのホストなんて珍しくもなんともない。
イケメン(風)の男がオタ芸もするし、
ニコ動とか普通に言うし、
らきすたを批評の土壌で真面目腐るといった場面は
数年前から行われている

と言った現状に、忸怩たる思いだったかもしれない。
だがそれが実際の現場において
オタクやホストといったアプリが
大きな差になるのかといえば、
そんな所で差なんて出ないだろう。
そんな事より相手をよく見て、
客観的に相手の気持ちを理解しようとする姿勢
その方が大事なのではないか。
と言った意味のことを続けて書いた。
だけど、そんな事言った所で
誰かを励ますのかと言えば、
誰かを追い込むことになってしまっていると思う。
実利で言い訳を無効化することは、
当事者にとって見ればお説教でしかない。
一発逆転の規模を拡大させることに
繋がってしまっていると、今では感じる。
伊達ワルファッションてそんなに金かかんねーよ。
といった言葉も、何かのせいじゃなくて
お前の努力の問題じゃん。
と切り捨てているように、読むことも出来るわけですから。

(かめはめ波は)悟空だって修行をしなきゃ出来なかった技だが、
それならいらないというのが今日的リアリティだろう。
即効性のある努力の要らないナイフが必要なのだ。
だから、デスノートが求められた
夜神月はあれでも本人の知恵というフィルターがあったが、
現実では何の努力もなしで、運のみで世界を征服しかける。
〜中略〜
自分が弱くてもアプリケーションが強ければよく、
より優れたアプリケーションに乗り替えることで
熟練度すら無駄な要素になる

トラックやナイフといったアプリケーションは
彼にとってのパワードスーツであり、
修行を経ないで誰かを死に至らしめる
現実的なアプリケーションになった。
それはデスノートが支持されたように
彼がキチガイだから、そう発想した訳ではない。
反則であっても
使えるものはなんでもつかうなんて当たり前の事だ。
プロレスにおける凶器攻撃のように
反則技をもって観客にブーイングを受ける悪役になり
自分がベビーフェイスである(=自分は善である)
立場を捨ててしまうと言ったところで、
だからそれはやっちゃいけない。
という理屈に今日的リアリティはない。
格闘技における、勝ったもんが正義
だからどんな手を使おうが勝たないと終わってしまう。
といった価値観の方が
まだリアリティに即しているだろう。*1


この頃、ドラマやアニメを見ていて
抗えない現実や、運命論を意識するようになっていました。

H2Oやシゴフミにおける貧富と家(柄)や。
鹿男における陰謀論や奇跡。未来講師めぐるにおける能力。
それはまるで、絶対変えようの無いもので
生まれた時に人の運命が既に決まっているといった
達観した絶望のように思える。
世の中に何も望まない、何も求めない。

だからこそ
どうせ変わらない運命なんだから
絶望であっても自分でやらざる終えない。
というように感じていたのかもしれない。


この時期やっていた紅蓮女はとても興味深い。

主人公は、運命論的に自分の不幸を嫌っているのだが、
神様(監督)は、奇跡や能力を与えない。
主人公は選ばれた人間ではなく、転生戦士でもない
コスプレして、マッチで火をつける。
自己責任で都市伝説化する愉快犯的価値観だ
(通り魔的といった方がいいのか)。
 むしゃくしゃしたから。
 相手は誰でも良かった。

セカイを呪い一発逆転メソッドによって
ノールールで一発逆転を狙うなんて
そんなに突飛な発想じゃないんじゃないか
少なくともこのドラマをつくっていたスタッフたちは
絶望を緩和する措置の必要性を
感じていたのではないだろうか。


そして

一発逆転が言い訳やしょうがないに繋がるという事は
起業も中退もデビューも脱オタ
デイトレードもホストも一人旅も
自己啓発もビジュアル系もカルトも
インターネットも
全てが一発逆転の為のアイテム(アプリ)でしかなく、
全ての乗り換えは自由になっているのだから、
その温床には憎しみや仕返しがあることは常に意識しておくべきだ。
〜中略〜
何故なら、人は自分が被害者になる為になら平気で嘘を付くからだ。

ここで書いたことが現実であれば
もう少し時間をかけてゆっくりと
まずは運命論からくる一発逆転的価値観を
解体することの方が重要なのかもしれません。
そして運命論に乗らない為には、
人に話を聞いてもらい、
また自分も人の話を聞くことが、
手軽に今からでも出来る事だと書いてはいますが
そこに明確な付加価値を与えられたら
もっといいのになと感じています。


例えば、この頃やっていた貧乏男子と言うドラマは
抗えない悲惨な運命を
人に話を聞いてもらい、
また自分も人の話を聞くことで
突破するようなドラマだったのかもなぁ
と無邪気にも思ってしまいました
それが繋がる地点が強引だったかもしれませんが
例えば、その可能性を高めると言う意味で
起業も中退もデビューも脱オタ
デイトレードもホストも一人旅も
自己啓発もビジュアル系もカルトも
インターネットも
それと出会い系も
大いに可能性があるかもしれません。


その為には、ちょい前にも書きましたが
http://d.hatena.ne.jp/ATOM-AGE/20080614/1213447667
建前上ネットでセカイと繋がっていても
世界中の似た者同士で繋がっている内は
それが誰にとってでも分かりやすい
誰も拒絶していない場所とは限らない。
 過剰流動性が高まったっつって、
 似たような奴らが入れ替わったって
 現状じゃ似たような奴らを使い捨ててるだけじゃん。
 それって派遣労働者の使い捨てと同じことじゃないの?
 社会だろうがオンラインだろうが人間関係だろうが
 過剰流動性は、市場も人間も活性化するっつってそりゃねーよ。
 ネット論壇とかネット言論だって
 派遣労働者を雇用する立場に
 急にスライドして言い訳とかすんなよな。
 まぁ気付いてすらいねーんだろうけど、
 その口でマスゴミとかカスラックとか
 ほざいてんじゃねーよ。
DQNとかいって切り捨てないで
ヤリマンとかいって切り捨てないで
折角、世界と繋がっているんだから。
折角、面と向かわないで
威嚇されたりぶん殴られない距離で
出会えるんだから。
案外、加藤を救うことが出来たのは、
オタクじゃなくて
こういった人間だったのかもしれないじゃない。


ラストフレンズでソウスケを救うことが出来たのは
ミチルじゃなくて、
オグリンとかエリだったのかもしれないじゃない。

*1:UFCなら兎も角、日本における格闘技はそういうもんでもないけれど