お腹が痛い子供。ストレスを言い訳にする大人。
不便を感じる事が、我侭だと感じる程に
文句無く便利な事の方が多い。
が、そうなってくると
そんな事考えてたら、人間生きていかれへん
といった事まで、便利になっていくわけだが
便利になる事に、文句を言う輩はナニゴトなのだろうか。
未だに、コレは信じる、コレは信用ならない
なんて価値観で、なにかを担保に生きていく事は
屈託無い生活には、邪魔だと思うのだが。
例えば、法律とか警察とか日本とか
過去、大きな力と呼ばれていたそれを
担保に生きていく事が、
脆弱な精神を鍛える所か蝕む行為だとは、歴史が証明したではないか。
例えば、殺人に○年の求刑が判決されたとして
各々の価値観を一つの数字に置き換える時に
双方が納得する判決は、とても稀だろう。
しかし、上記したような大きな力に委ねる事で、
いつか悲しみや憎しみを乗り越えようとする
第三者的なアングルが採用されていて
それでも、悲しみや憎しみを
今すぐに、諦めろと言われている訳ではない。
その時、更なる第三者が、ここに矛盾を見る場合に
被告と原告の立場を踏まえて、公言をしているのだろうか?
人を殺しておいて○年は少ない多い
と、言う事で、残された遺族がいつまでたっても、
現実と折り合いをつけられない現実は、存在しないのだろうか?
いや、いつまでたっても、一生折り合いなんてつけられないし
責任なんて取れないのだから、
出来るだけ忘れるのではなく、共に歩んでいく方法を模索するべき
だという上で「人を殺しておいて○年は少ない多い」
という、第三者の言葉が、遺族に囁く公言として妥当なのだろうか。
また、人は過ちを犯す。ミスをする。
といった間違えを享受する世界なんて
本当はどこにも、存在しなかったのかもしれない。
が、それでは、現行の三権分立事体が時代に添っていない
と言う事にはならないのだろうか?
ならばせめて、便利な世の中に悪態をつくよりも
昔より、便利になってるんだから、やる事はやろうや。
一々、肉の生産地調べても、
それで誰かに何かを保証された訳ではない。
責任をマクロな部分に転嫁しているだけかもしれない。
それでも、人がミスをする事を認めないのなら
自分の責任で、
出来得る限りの情報の摂取を、面倒くさがらずに過剰に取り入れなきゃ。
そうでなければ、結局第三者に人と人の間を取り持ってもらわないと、
生きていけず、更にそれさえも受けとめられず、
自分のミスの先に、いい訳さえ許されない現実が待っているじゃないか。
自分の責任で、リスクの変わりに、自分で納得できる証拠を集めるのか。
第三者の責任で、怠慢(安定した生活)の変わりに、リスクを背負うのか。
いい年して、ストレスを言い訳にしていても、八方塞がるだけだろう。
ストレスを感じない為に、何かを選択しないと
過剰な糾弾を避けられないし、
誰にも信用されなくなってしまうなんて悲しいね。
どこかで、誰かのミスを許してあげないと
子供の我侭が、蹂躙するのは目に見えてるさね。
証拠の残るWEB上で、それは過酷な選択だと思うけど
子供の我侭が、WEBを覗いてるんだから
誰かのミスは、自分のミスなんじゃないのかな。