アイドルマスターってアニメ

辻ちゃんの結婚への反応を始め、アイドルとファンの関係性は、自分には計り知れません。が、このアニメを見ていると、どうにもアイドルファンのやり切れない感情を感じてしまう。ゲーム版のアイドルマスターについても自分はちょっと疎いのですが、自分好みのアイドルを育成するゲームなんだろうと想像しています。そしてアニメ版におけるプレイヤー不在性が、ゲーム版のファンに大きな断絶を与えると考えていたのですが。第一話を見た時点で、主人公の女の子が乗り込む巨大人型ロボットが、そのプレイヤーに当たるのだと認識しました。するとココで、ゲーム版アイドルマスターへの批評性が生まれるわけです。
アニメ版を見る姿勢がそのまま、ゲーム版アイドルマスターをしている自分を省みる作業と親和するといった構造になっていると、そう思った訳ですね。ココに見える悲しさは、騙し騙される作業ではなく、信じあうという作業に美化されていると思うのですが、共同作業を通して成し遂げながらも"分かり合えない"という断絶は、多分描かれているんじゃないかなぁ、と思いました。人と未知のロボットだし。
というか、ゲーム版においては、プレイヤーが(未知?)のシステム上で楽しむ行為であるのに対し、アニメ版では逆にファンを未知のロボットだと言い切り、アイドル側の人間的の感情を、ロボットに理解してもらうという作業に見えます。客観的な物言いになってしまうのは、申し訳ないですが、なんとも悲しい行き違いだなと。
さらに、悪い言い方ですが、ロボット=ファンの力を利用する立場に主人公は立たされているのです。ゲーム版における、プレイヤーの嗜好形態から、現在の(現実の)アイドルシーンへの不快感が見える気がするのは、マネーの投資が直接パラメーターの成長という、形あるものとしてレスポンスしてくれるものなのに対し。アニメ版では、ロボット=ファンの無償の奉仕を利用するのが主人公だと。まあ、場合によっては反応しないという形で、違和を表明はするのですが、基本的には能動的な参加をしません。何を言おうとしていたかは完全に忘れてしまいましたが、現実のアイドルが、一対不特定多数なのに対し、アニメ・ゲーム版両方が、一対一の関係性で描かれている以上、現実のトレースではありえないのですが、ファンが、一対一の関係性としてアイドルを嗜好する事と、アイドルが、一人一人からファンを獲得していくという原点退行を起こしているとすれば、無理矢理すぎかもしれませんが、そういうアングルも存在するかなと。あんまり背負わせすぎても、一人の人間に複数の人間の愛情は支えきれないと思うので、性善説は大切かもしれませんが、また一時期のように生身のアイドルの責任は重くなってきているのかもしれません。
またアイドルおたくが、感情移入のできないモデル出身が流行っていたのも、モデルがいくら自意識を撒き散らしていたとしても、所詮お人形さん・マネキン・ロボット・ダッチワイフとしてしか、(モデルに感情は)求められていない事の証明ではないかなと。そこに耐え切れない人間は、女性ファンに向けて、女性ファンの為だけに、女としての自立を自意識の表現方法として表出していかざる終えないんですよ。でもこの論法だと最終的に、男がだらしないから、女がさめる(恋や愛という夢の願望充足装置としての機能を男は果たしてくれない)。っていう、なんだかアレな方向に進んじゃうので、ちょっと嫌なんですけども。現在これを越える、納得できる社会性ってまだ広く浸透されていないんですよね。