シン・ゴジラ

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 シン・ゴジラはあまりにも庵野の映画でした。そしてとても面白い特撮映画だったと思います。同時に、台詞とカットによって会議に次ぐ会議をテンポよく、或いは気持よく見せてくれると聞いていたので期待していたのですが、それは思ってたよりは(アニメの時よりは)キレッキレとは思いませんでした。動いていないものを撮っているとしても、撮影はアクションで、静止画と動かないものを撮っている動画が違うのを、誰に教えられたわけでもなく、見れば誰もが分かります。俺ぐらいの歳だとエヴァンゲリオンで始めて、(静止していても)カットが編集で超カッコイイものになってるのを見たんだし。最初に実写を撮った庵野監督が、子供がおもちゃを与えられたかのように手持ちカメラや長回しを乱用するのも分からんでもない。それも一周して、アニメも実写も編集でかっこ良くするってのは変わらない。また、カッコよさに酔っ払ってよく分かんなくなったまま、多くのそれ以外を受け入れてしまうこともあるから。かわいいは正義と同じように、カッコイイからってなんだっていいというのは無いです。決め画は惚れ惚れするほどよかったです。でも、それを持続させるには画面の遅緩を感じたということです。ただ、あの滑舌だと限界あるということなんでしょう。テンポで言えば、声に出して言いたい気持ちいい台詞にも乏しく、無人在来線爆弾くらいでした。あれは声に出して言いたい。また、肝心な所で長谷川博己の演説に全然鼓舞されなかったのも、あえてエンタメ性を排除してるのかなとも思いますが、人によっては超エンタメだという人もいるので、じゃあ肝心な所で脚本しくじってると思います。編集と台詞で言えば、アウトレイジ・ビヨンドがキレキレの編集だったと思います。これって好みですかね。多くの人が編集の力に目を向けると、俳優の滑舌問題に誰もがあたると思いますので、遠藤憲一とか木村拓哉とかは早いテンポに向かない人として、演技力の指針が更新されるのかもしれませんね。

それと全体的な古臭さも苦手でした。平成ガメラが乗り越えられなかったパトレイバー2映画をやっと更新したとは思うんですけど、今更だし。その70年代~80年代的問題系自体が、かっこ悪くうつる。それも1部で終わり、二部以降で見せる90年代的~00年代的なものも、ああ俺達の世代ってこんなにダサいんだなあ。と思いました。プロジェクトXシンドロームの行き先に、数年前の日本を事さらに持ち上げるテレビ番組の群れがあり、この映画もその付近にある訳で。そこはどうしても飲み込みづらい。逆に特撮部分のおたくっぽさは、こんなゴリゴリにやっても(意味を残して省略される撮影の逆)カッコよさが通じてるなら、それは最早おたくらしさではなく、邦画総力戦の結果なんだと思いなおさなくちゃいけないかもしれません。でもそれが海外に出て通じるかどうかは、慎重に見て良いと思います。

それでも特撮としてはもとより、邦画としてめっぽう面白いことは間違いないと思います。空撮による映像、ミニチュアで再現されたシーン。それらが組み合わされた、ディザスター映像。またそれらにはさまる、大小様々なカメラの映像。予算がどうこうとかを忘れて興奮します。筋立ても、こんなおたくっぽい映画なのに超わかりやすい。スクリーンを見ていれば、どうなったかは明確だし。それを受けた会議パートも、結局どうするかはハッキリと説明する。誰か悪者をこさえなくても、目的の為に団結するのでゴールが明確。前半の皮肉を除けば、それなりに誰の言い分も分かる。後から思えばおかしい部分もあろうが。全てその瞬間に最善の策を実行できるわけではない、っていうのが、嘘にならないギリギリのラインで担保された話運びになっていた。

それでもこれ俺がエヴァめっちゃ流行ってた時に思春期だったからなんじゃないの、世代が変わると、国が変わると全然通じないんじゃないのって思いが拭えないのも事実です。これが邦画の総力戦でなく、映画史を塗り替えるエポック・メイキングな新作であったらと思ってしまう。例えば中島哲也版の進撃の巨人がもし去年公開されていたら、シン・ゴジラってどう見えていたんだろうとか。新しさもふんだんにあったのに、見終わった後には、過去の遺産を総動員して最高のものを作ったが、新しい表現を見たという方向の感動を出来なかったという気分なのが正直な所です。

あとどうでもいいことですが、この世界にはゴジラ作品が存在しないんですよね。なんとなくだけど、ゴジラって明確な虚構があるからこそ、実際にゴジラが出てきたら、それを受け入れるのが恥ずかしいのが、大人の振る舞いなのかなって思ってた。

白石晃士 『カルト』

この原稿はスタジオ・ボイスのオフィシャルウェブサイトに2013年7月17日掲載された原稿です。サイトのリニューアルに伴い掲載も無くなったので、こちらで再掲載することにしました。

今読んだらひどいもんだったので、めちゃくちゃ大幅に加筆修正しました。…ですが収集がつかなくなってきたので、また直すかもしれませんし。勝手に載せてるので怒られたら消すかもしれません。

他のもう読めない原稿も時期を見て少しづつ再掲載していきます。

 

 

白石晃士監督による第31回ブリュッセル・ファンタスティック国際映画祭正式出品作品『カルト』は、監督の最も得意とするフェイク・ドキュメンタリー映画だ。

 

主演のあびる優岩佐真悠子入来茉里の三人は本人の役で登場し、タレント業の一環として心霊番組のレポーターをするという、テレビのバラエティ番組のような導入になっている。怪奇現象が起こるといわれている家で撮影された映像には、ある怪奇現象が記録されていた・・・というのが物語の始まりだ。

 

白石のフェイク・ドキュメンタリーの特徴は、観客を怖がらせるといったホラーの機能から大胆に逸脱し、もはやホラーではない全く違う場所に着地させる部分にある。怖がりにきた観客を呆然とさせたり、爆笑させたり、謎の感動をさせたりするその作風こそが魅力なのだ。

 

だが、フェイク・ドキュメンタリーを見るためにはそれなりのリテラシーを求められるのも確かである。本稿では白石作品を見るためのポイントを少しだけ解説したいと思う。

 

フェイク・ドキュメンタリーとは別名「モキュメンタリー」と呼ばれ、実際には存在しない人物や出来事に対し、ドキュメンタリーの演出法で撮影した表現のことを指し。古くはヤコペッティの『世界残酷物語』や『食人族』などが日本でも話題になった。その後、『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』といったヒット作も生まれ。近年でも『クローバーフィールド』や『パラノーマル・アクティビティ』、『RECシリーズ』といった作品等、途切れることなく進化を続けている。

 

近年ではPOVと呼ばれる主観ショットを盛り込んだ作品が増えているが、一人称で手持ちカメラを使う映像は今に始まったことではなく。現在主流のPOVは「コールオブデューティーシリーズ」をはじめとした、ファーストパーソン・シューティング、通称FPSと呼ばれるゲームの影響を強く受けている。主人公はカメラの前に立つのではなく、カメラを持っている側になっているのだ。ということは、物語上の主役がカメラに映らないことも厭わないのである。7月から日本でも公開が始まった『V/H/S シンドローム』及びその続編がこれに当たる。

以前までは主役の他にカメラマンという脇役がいて、カメラを回す動機も担っていたのだが、それも徐々に変わりつつあると言える。

更に3Dになると、主役を見るのではなく、主役の目線を借りて観客が演じる要素が大きくなっていく。これは近年の3D映画を始めとした、映画館での体験が、ライド型アトラクションに接近している事の証左に他ならない。

 

更に、『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』以降主流だった手持ちカメラから、定点カメラ・監視(防犯)カメラを使った仕掛けを取り入れる傾向も存在する。

日本では古くからバラエティ番組で行われてきた手法で、科学的見地からの検証のような場合によく見かける。『パラノーマル・アクティビティ』『グレイブ・エンカウンターズ』や『アパートメント:143』がこれに当たり。ここにおいては、もはやカメラを構える人間すら存在しない。

この手法は、カメラを動かすことで見落としがちな、細かい“異常”も表現しやすく。日常と地続きの世界が、少しづつ変化していく様子を描く為に使われることが多い。

これは、ヤコペッティの時代には信じられていた世界の何処かに存在する、日常から切断された世界から、身近な世界へとテーマが移っている為ではないだろうか。

これは言うまでもなく、撮影自体が特別な行為であった時代から、誰もがスマホで身の回りを撮影できる世界へのリアリティの変化だ。

そして白石晃士監督の最新作『カルト』もまた、定点カメラを使った仕掛けがふんだんに盛り込まれている。

 

フェイク・ドキュメンタリーはその特性上、それを製作した国のドキュメンタリー及びテレビ番組のテイストに強く影響を受ける。例えばインタビューやニュース映像の撮り方ひとつにもお国柄が出る。過剰なテロップやワイプ、効果音、またはモザイク処理の使い方は、日本のテレビ番組の大きな特徴であり、海外のフェイク・ドキュメンタリー作品で見ることは滅多にない。

 

また、ワイプやテロップの使い方を見てもわかる通り、日本においてテレビ演出はバラエティ番組の影響を強く受けているため、その理解はフェイク・ドキュメンタリーを考える上で非常に大きなウェイトを占める。

 

1970年代から80年代にかけてヒットしたテレビ番組、水曜スペシャル川口浩探検隊シリーズ』は、日本のフェイク・ドキュメンタリー史における草分け的存在だ。当初はドキュメンタリーとして見られていたが、現在では「やらせ」と呼ばれてしまうような過剰な演出が話題を呼び、本当か嘘かといった議論も含め視聴者の心をつかんだ。 

過剰な演出を承知で、半ば演技のようなことをしていた川口浩と、それをまるでドキュメンタリーだと視聴者に思い込ませる演出は、フェイク・ドキュメンタリーといっていいだろう。

 

しかし「やらせ」と演出の境界が曖昧なように、バラエティとフェイク・ドキュメンタリーの境界もまた曖昧な筈だが、バラエティに対しては言っても、フェイク・ドキュメンタリーに対してやらせとは誰もいわないだろう。それはフェイク・ドキュメンタリーが、既に「やらせ」であるとバレているからだ。だとすると、フェイク部分の演出の良し悪しが、そのままその作品の評価になってしまうというのでは、フェイク・ドキュメンタリーがジャンルとして限界を迎えていると言わざる負えない(ジャンルの縮小再生産しか出てこない)。しかし本当に限界を迎えているのならば、わざわざ取り上げない。白石晃士監督は、その限界を世界に先駆け突破する、新しいフェイク・ドキュメンタリーの旗手なのだということを、少しづつ説明していきたい。

 

そこでまずは、川口浩探検隊のようにバレないようにする必要のなくなったフェイク・ドキュメンタリーは今、バラエティと共に、どのような形に進化していっているのかについて考えていきたい。

 

フェイク・ドキュメンタリーが、構造上バラエティ的要素を含意していることは先程書いたが。最初からバレているからといって、それを前提としたコメディ要素を盛り込もうとすると、白けてしまう場合が多い。例えば海外のコメディ映画を思い出して欲しい。エンドロールの前後にNGシーンが挟み込まれているものを多くみかける。そこで行われるNGの多くは、俳優が笑ってしまうことでNGになっている。真剣に問題とぶつかる過程で笑いが生まれるとするなら、登場人物が観客を笑わそうとしてしまうと、笑えなくなってしまうからだ。白石の諸作品もそれと同様に、徹頭徹尾シリアスなトーンを崩さない。

 

それと対称的に、お笑い番組でタレントが役割を超えて笑ってしまい、その笑い顔をカメラから隠す姿を見せてしまう、という見せ方があるが。演じる自分を超えて笑ってしまった、というリアリティであるためOKテイクになっているわけだ。何故このような違いがテレビと映画で生まれてしまうのかと言うと、テレビでは演じられたキャラクターではなく、演じているタレントを見ているといった違いがある為だ。

タレントを見ているということは”あえて”キャラクターに没入しないという態度でもあり。一度”あえてを”飲み込んでいることで、キャラクターではなく状況(番組ごとのルール)に没入する準備が出来上がる。その結果、キャラクター達の関係性を”観察”するといった見方に観客はズレていくのだ。

そしてフェイク・ドキュメンタリーはテレビの影響を強く受けることで成立している、と先ほど書いたように。この関係性が白石を、世界的に類を見ないフェイク・ドキュメンタリー作家たらしめている遠因にもなっていると言える。

 

それを端的に表しているのが2010年の『シロメ』だ。この映画は、アイドルグループ「ももいろクローバー」が本人役で主演を務めるフェイク・ドキュメンタリー映画である。彼女たちには映画の趣旨は伝わっておらず、廃墟へのロケを決行してもらう過程で、様々な恐怖演出が彼女たちの身に降りかかる。そこに彼女たちの意思とは関係なく、編集でフェイク・ドキュメンタリーのテイストが足され、最後にとある事件が起こるといった内容になっている。

 

これはいわば「ドッキリ番組」だ。演出されたアイドルのかわいさよりも、本当にビビった時に出る素の表情や、目線のやり取り、とっさの行動から伺えるメンバー同士の関係性を浮き彫りにする方が魅力を引き出せる、と同時に。演技経験の足りなさ、予算の少なさ等といった、マイナス要素の中で活かせる演出法として「ドッキリ」が採用されたのではないか、と推測される。

 

バラエティ的なドッキリという構造上、映画であるにもかかわらず、前述したように、キャラクターに没入せずに、彼女たちを観察するという立場にズレる(主役であるアイドルに感情移入するのではなく、寧ろ監督の側に立っている)。そのため、この映画を見て、「彼女たちを騙すなんて許せない!」とは流石に言わないだろう。 どちらかといえば、観客も共犯者なのだから。

 

しかし、『シロメ』にはメンバー内で一人だけ、この構造を事前に知らされているメンバーが混じっている(騙されるふりをして騙している。逆ドッキリ)。ということは、そのメンバーだけは、キャラクターを演じていたことになる(素ではない)。監督の側に立ち、ドッキリを見ていた筈の観客ですらも、気が付くとフェイク・ドキュメンタリーの世界に引きずり込まれていたということだ。このことから、ドッキリ とフェイク・ドキュメンタリーの境界は、体験をする主体がその構造を知っているか否かにある(逆に言えばそこしか無い)ということが分かる。

 

一度整理しよう。観客は映画であるにもかかわらず、キャラクター(映画の中の役)ではなく、タレント(日常と地続きの素の状態)を見ている。その為、この映画を感情移入ではなく、観察の方法で鑑賞している。しかし一人だけ素の状態のタレントではなく、演技をしている映画の中のキャラクターが存在することが徐々に明かされていくに連れて。ドッキリというバラエティ番組ではなく、フェイク・ドキュメンタリーという映画の世界に逸脱し、観客は観察の状態を脅かされてしまう。つまり、映画の中で完結せずに、観客自体の状況を変えてしまっているのだ。

 

世界のフェイク・ドキュメンタリー作品については、それなりの数を見たと思うが、こんな手のこんだことを、全くお金をかけずに作るのは、世界中を見渡しても白石晃士監督しかいない。フェイク・ドキュメンタリーが持つジャンルとして限界を、ただ唯一白石晃士監督だけが突破していると感じるのはその為だ。しかしこの映画だけでは、白石晃士監督作品の入り口に立っただけにすぎない。

 

今、白石晃士監督のアイディアが爆発しているのが、『戦慄怪奇ファイル コワすぎ! シリーズ』であり、『カルト』だ。

 

前者では低予算ながらも数々のアイディアを取り入れ、フェイク・ドキュメンタリーのこの先の可能性を表現している。「えっ!?」と思わされると同時に、爆笑の渦にも巻き込まれる。

 

そして『カルト』。初めて白石晃士の名前を轟かせた『ノロイ』にテイストが近いが、後半部で『ノロイ』とは違う形で大胆な逸脱をする。そのキッカケとなるのが、白石のもう一つの武器である「ヤバイ人間」の存在である。

 

白石の作品にはほぼ全て「ヤバイ人間」が現れる。「ヤバイ人間」とは幽霊や妖怪のことではなく、文字通り人間のことだ。ただの「オカシイ」人。それは異世界へのハードルが低い人間、あるいは既に片足を突っ込んでいる人間として現れることが多い。

 

『グロテスク』『オカルト』『バチアタリ暴力人間』『超・悪人』と製作を重ねていくに従って、そのベクトルは、頭がオカシイ人から暴力的な人間(或いはDQN)へとシフトしていく。「ヤバイ人間」たちは圧倒的な暴力性で、ホラーやフェイク・ドキュメンタリーの枠組みをも壊してしまう。その結果、別の何かにしてしまい。やがて観客は、何を見てるのかわからなくなってしまう。

 

近作になるほどに、規模の大きな暴力から、ミニマムな関係性の中での圧力へとバランスが変化しているのは。世界の潮流と同じく、日常と地続きの世界をリアリティのベースにしつつも、日常からの逸脱を描く白石監督の作家性が如実に出ている部分だろう。その逸脱の為の装置として、暴力は今も描かれ続けている。

 

「ヤバイ人間」の演出の中でも究極のバランスをとっているのが、『戦慄怪奇ファイル コワすぎ! シリーズ』の工藤である。具体例は省くが、人間だろうと幽霊や妖怪であろうと平等に高圧的で、幽霊や妖怪もぶん殴ってどうにかしようとする人物だ。暴力サイドの「ヤバイ人間 」と、フェイク・ドキュメンタリーサイドの幽霊・妖怪によるガチンコバトルがこの作品の魅力の一つだといえる。これは、白石サーガにおける「エイリアンVSプレデター」ともいえるだろう。

 

そして『カルト』ではまったく新しい「ヤバイ人間」が着想されている。それは頭のおかしい人でもなければ、暴力人間でもない。なんと「ヒーロー」なのだ。彼がどのようにスクリーン上を暴れまわるのかはご自身の目で確かめていただきたいが、この人物の登場により、ホラーやフェイク・ドキュメンタリーが持つ文脈は崩壊していき、少年漫画や、ニチアサヒーロータイムのような、観客が予想もしなかった世界観が立ち上がる。

 

仮面ライダーオーズ」で、敵でありながら仮面ライダーと行動を共にする「アンク」役を演じていた三浦涼介が配役されているのには、こういった必然性があるのだ。

 

いずれ、NEOと工藤が戦うのか手を組むのか分からないが、そのようなアベンジャーズや特撮ヒーロー対戦が見れたら本当に最高だ。それは世界中の誰もがやっていない、映像体験になるだろう。

 

最後に私見になるが。私達には私達なりの法則で説明できる現象の世界に生きている。そしてテレビ上には、私達とは別の法則の世界があり、そこにチャンネル(チャネル)を合わせている。少なくとも、そう演出された世界がバラエティであり。テレビを信じようと信じまいとに関わらず、その演出方によって、私達と同じようで少しズレている異世界を覗き見ているに過ぎなかった。それは、かつてテレビという存在そのものが、フェイク・ドキュメンタリー的な、虚実性そのものであったということでもある。しかし、少しづつその境界は曖昧になっている、とSNSを通して世界を覗き見していると感じてしまう。そういった感覚を白石晃士監督の作品は、見事に捉えているといえる。

 

フェイク・ドキュメンタリー界を牽引するスペシャリストでありながら、フェイク・ドキュメンタリーを逸脱するアウトサイダーの顔を持つクリエイター。見たことがある筈の映像なのに、見たことがない体験を覚えさせるーーこれこそが白石晃士の本質であると私は考えている。

DOCUMENTARY of AKB48


ぼんやり考えた妄想です。
AKB48における、ノースリーブスや渡り廊下走り隊Not yetは、スマイレージももいろクローバーZ東京女子流に当り、AKB48ハロー!プロジェクトと同じ位の意味であるという前提での話なんですが。
派生ユニットって多分、魅力の見つかった順番だと思ってんですけど。これと濱野さんの初音ミクを政治家にって話を合わせると、俺政治云々はよく分かんないけど、人材の発掘/育成/派遣を兼ねた会社になんじゃねえかなと思って。
少し前までは俺も、AKB48が今一番キツイのは人材の流動性が担保されていない部分だと思ってて。匿名の少女が固有名を持った一つの人格的存在になったら、入れ替えないと、一部の人間をヒロインにしただけで、それが終わったら、プロジェクトそのものも終わってしまうと思っていたからなんですが。
AKB本体を通して発掘/育成されるのは、決してアイドルに限らない、と感じてるんですよ。単純にモデルや女優やバラエティタレントなんかは、既にやられてますし、メンバーが考えたグッズやメニューっていうのもありますよね。少女が女性になる過程を第三者に見てもらうことで、何に向いているかを発掘される場所ならば、機材運搬、舞台演出に向いている人や、企画/営業に向いてる人や客商売に向いている人材も発掘されるんじゃないかなって思ったんですよ。
衆目が集まる現場に晒される方が、漠然と大学に行くよりも、寧ろ安心・安全。お父さんも心配無し!手に職もつきます。的な。
例えば、AKB専用のコンビニで同世代の女の子達で売上を競わせてさ。セブン・イレブンよりも店員が可愛い。握手ができるみたいなのって今のCD on 握手券のことだと思うんよ(いやローソンの子の方がかわいいとか言い出す奴もいるだろう。既にそうか)。ザックリ言えば看板娘ですよね。
その売上がそのまま劇場のヒエラルキーになってもいいけど、単純にバイト代が上がってもいい。ただ漠然とバイトしてる奴よりも、数倍出来る店員が出来上がるでしょうに。だって、店のために頑張る、結果が出れば給料として本人に還元される。ってできてる会社いくつあんのって話で。ただ24時間は難しいだろうなあ。強盗に狙われやすい店作ってどうすんの。
ただこういう事をしだしたら、金権主義のAKBが地元のコンビニ潰しにきた。って言われるかもしれない。外から来て定住してない奴らが街を荒らして、ダメなら撤退されたらかなわんみたいな。でもそれって、今のフランチャイズのコンビニが個人商店にしてきたことじゃね。むしろセブン・イレブンよりいいんじゃない。それと不細工はバイト先も無くなるのか。っていうのも多分あるだろうな。いや今でも顔が選考基準だったりするからな。
いやなんかAKBのシステム使ったら、既存の社会構造よりも効率良くなったりしねえかなっていうね。キッザニアとAKBが同じようなね。いや実際やったら、研究生の負担パないだろうし、やりがいの搾取ガンガンいこうぜって感じになっちゃうかもしんないけどさ。

アイドルブームと子育てのアウトソーシング


今年のアイドルブームを眺めていて気になった話として、アイドル消費の多様化が外に認知され出した事がある。その中でも、揺るぎない勢力だったベタな擬似恋愛が接触/認知だとするならば、音源/在宅(Ust)、ライヴ(Ust)/コール、振りコピなどなど、アイドルおたくとイクォールで結ばれるイメージがより一層広がった。その中でも、擬似親子消費について少し考えてみたい。
例えば今年も多くのスキャンダルが、俗に言うアイドルにかかわらず、憶測を含めファンを悩ませたが。上に書いてある通り、消費の形態がどんどん増えている事で、スキャンダルとの距離のとり方もまた多様化した。が逆に一人ひとりのファンとアイドルの距離は、握手会の例を出すまでもなく、ブログやTwitterで話しかける位変化し、また一人ひとりのファンが自分のアイドル消費を公や直接本人に表現する手段も多様化した。つまり、ファンの怒りや憎しみもまたアイドルに届きやすくなった。
一人でもお父さんはウザいのに、何万人ものお父さんに見守られ、干渉され、説教される辛さは中々経験できないかもしれないが。素人でもブログが炎上したり情報サイトで取り扱われ、急にその立場にぽーんと投げ出される可能性は常に秘めている。アイドルオタに関わらず、誰もが自分もアイドルであることに無自覚ではいられやしない。アイドルを覗いている時、アイドルもまた自分を覗いているのだ(?)。
年頃なんだから彼氏くらいはっていうお母さんは、この擬似お父さんとの間に入って「まあまあ」と守ったりはしてくれない(その話はお母さん消費とジャニーズ/ヴィジュアル系の時に)。やはり本当のお父さんとは決定的に異なるのだ
逆にアイドルがアイドルのオタであることを自称し、キャラ化することは当たり前になっているし、アイドルとファンの境目は事実かなり曖昧になっているといえる。


こうしてアイドルとファンの関係を、一方的なお父さん消費と見なおした時に、カレログも、Ustも、アーカイヴから過去のプリクラ掘るのも、それに対するコミットの仕方や態度が違うだけで、根っこにある動機は同じなのかも知れないと思うに至った。
例えばお父さんは、娘の安全の為なら後ろめたさを厭わず、日常の監視に(擬似的であれ時間を)課金しているということなのではないか。課金さえすれば気軽にコミットできるし、アイドル個人を傷つけない限り(多少周りの空気を悪くした所で)決してイケナイ事でもない。だがだからこそ、こちとら金払ってるのに(父にとっての)安全(つまりセックススキャンダル)が保証されなかった事に憤るのではないか。
誤解を与えてしまったとしたら申し訳ないが、これはキモオタうざスwwって言いたい訳ではなく、むしろそんな人に限って(無自覚に)芦田真奈やダルビッシュmixiの擬似お父さんだったりしている訳で。つまり、アイドルだからとか、おたくだからとかいう話ではなく。今起こっているアイドルブームは、アイドルじゃなくて、貧困の時代の子育てブームなんですよね。


話は少し変わってしまいますが、このアイドル消費(の一形態)=子育てのアウトソーシングという話で、孤児院へのタイガーマスク運動を思い出した。変な意味じゃなくて、貧しい子供を養育し、写真や手紙が送られお父さんになるっていうのも、アイドル文化の文脈を借りると見え方が随分変わって見える。もしかすると、最もエクストリームなアイドル事務所はあしなが育英会かもしれない。CDや写真集っていうマテリアルに対価を払っているワケじゃなくて、パラメータの回復時間を短縮するように、アイドルと共有する時間に課金するシステムだから、何枚も同じCDを買うという言い換えも出来るのかもしれない。課金には上下の際限がなく、誰が偉いとか○○だからダメだとかいった縦割りの関係性をキャンセルし、同じものを楽しめるといった時代の空気を捉えているといえる。


ちなみに、K-POPは外人だからか成人感があるからか分かりませんが、そういった不安を課金で紛らわす擬似親子関係を築き辛いイメージがある。言い換えれば、出来上がっている作品が、中の人間の不祥事云々によって、価値が上下しない。その代わり物語にコミットして操作(プロデュース)している感覚が薄い部分もあるかもしれない。
そういう意味で国外を作品、国内をゲームと見ることも出来るかもしれないが。ここには韓国人の(擬似的)お父さんの目線が抜けていて、韓国にも熱愛への義憤や過去の恋愛をググる文化はあるわけですけどね。


ラブプラスアイドルマスターの話を入れるのを忘れてた

体験するアイドルから音楽とダンスについて7 -人力初音ミク。-


体験するアイドルから音楽とダンスについて
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もう出し尽くしたと思ってたんだけど、もう少しだけ今のアイドルってこう言う風になってるのかなってはなしをば。ではホラーは唐突に始まります
前山田健一の変名ヒャダインが、何故アニメファンから好かれないのかは、彼自身の言う「良い楽器」を本人が持っていないからじゃないか。これはアニメファンという「場」に特徴的ですが、良い楽器の音は聞きたいが、弾いてる奴の顔なんか見たくない、作家性ではなく身体性を求めているという欲望の表れで(声優の多くは作家が作詞作曲をする)。例えるなら声優はファンタジーだが、前山田の声は実写だということだと思う。



そして本人もそれを知ってか知らずか、自分の声を加工するヒャダル子といったペルソナを持っている。これは神聖かまってちゃんが声を変える(ファンタジー/二次元に近づく)のと同じで、自らを初音ミク化/人力初音ミクにするということ(逆にアイドルの側からかまってちゃんをやるとBiSに代表されるDIYアイドルになる)。



人力初音ミクといえば、渋谷慶一郎口ロロが声優を呼んできてやっている作品、そしてなんといっても相対性理論が思い出される。また前山田健一は自らと同時に、ももいろクローバー私立恵比寿中学といったアイドルや、麻生夏子ゆいかおりといった女優/声優をもシーケンスしている。彼は女の子の声を加工しない事で、自分の声を加工しているわけですね。



もし彼女たちを楽器に見立てた前山田健一NARASAKIのバンドだとしたら、それは彼女たちを通して実写の作家を見ていることになる。我々はアイドルが好きなのか作家が好きなのか。個人的にはももいろクローバーを見ている時に、作家を消費していると感じたことはないが、この事を常に突きつけられ続けている事は確かで(オトナが仕掛けた罠をくぐり抜けっていいますしねえ)。逆にこの緊張感が無かったら面白く無いのかもしれない。しかし、自分がももクロの新曲を聞く度に毎回感じる「またももクロの勝ちか」という思いとも重なるのだが(彼女たちが宮崎駿なら脅かしてみろよって言うでしょうねえ)、ここにおいて何が勝ち負けなのかというと。音楽で言えば楽器という特性の持つ限界のようなもの。


90年代に音楽の進化がそのまま機材の進化に置き換え可能になった時、そのアンサーとしてROVOなどの隆盛によって人力トランスというワードが流行り、ポストロックやエレクトロニカを経由しその後のマスロックを準備したという文脈があり(雑ですが、機材はアイドルの身体性。人力トランスは人力初音ミク)。
つまり何が言いたいのかというと、アイドルというのは、プロデューサーがアイドルの身体性を引き出しているわけではなく、同時にプロデュース側もアイドルに作家性を引き出されていて。このバランスのせめぎ合いで少しだけアイドルが勝つのが(コドモがオトナに勝つ)、アイドルの魅力なのではないかということなのでーす。



そのどちらかが突出してしまうと途端に白けてしまう。例えば、しょこたん前後に「〇〇アイドル略して○ドルです」という慣用句で界隈は敷き詰められていたけれど、そこには自己プロデュースの荒野しか見えなかったですよ。たまにアイドルが自分で歌詞を書く時に一斉にガッカリしてしまうのもその為。だからといって、みんながみんな秋元康バリのネームバリューで仕掛けを引っ張ってこれるわけでもなく、結果アイドル冬の時代に比較的安価なライヴ(地下)アイドルがすし詰め状態になるのも頷ける。この文脈を逆に読み解けばゴールデンボンバーの説明にもなる。アイドルの身体性を人力MMD的にシーケンスし、曲は書くけど、もっとうまい人に弾いてもらう訳ですから。



今は楽器で例えたから、音楽の話をしているように見えますが、これはプロデュース全般の話で。楽器じゃなければ、例えば早すぎて乗りこなせない乗り物。作家に限らずプロデュースする立場の人間たちは、自分は乗りこなせないが理論的には可能な筈の夢の乗り物を作っている。だからこれはある種勝負。もしかすると女の子を殺してしまうかもしれない勝負。音楽の話を切り離せばAKB48のプロデュースもこのアナロジーで説明可能。なぜ総選挙にドキドキしてしまうのかといえば、乗りこなせなかったら死んでしまうことが分かるから。総選挙において、何位以内に入らなかったら何票以下だったら、自分をアイドル足らしめるインフラの底が抜けている事を自覚することであり、やはりそれはアイドルという自意識の死なのです。しかし身体が擦り切れながらも最終的にプロデュースを超えるから震えるわけですよ。


この様に、私自身がアイドルをアイドルたらしめるアーキテクチャに語りを引き出されてしまう事自体が、私が負けたことを象徴しているわけですね

アイドルは死んだがキャラバンは続く


アイドルの概念自体は既に死んでいる。誰もが自分のメディアを持ち自己プロデュース出来る時に、アイドルとは生活の中に自分で発見するモノであって。それのパッケージ化―カタログ化―が美少女図鑑や美人時計や美人すぎる素人。そういう意味で、アイドルは居るけどいない、霊のようなものだといえ。見えないものを見ようとするその目が、ただの人間をアイドルたらしめている。


それはアイドルの単価辺りの価格が著しく下がったということでもあって、どれだけ売れていてもアイドルは、カリカチュアライズされたごっこ遊びと本質的な差異が無くなる。一人ひとりが自分だけのタイムラインをセカイと認識した時、国民の総意としてのアイドルは、その役目を終えたと言える。すなわち、それでも今アイドルをやるということは、本人がやりたいからやってる、とファンが言い訳出来てしまう所があって(事実そういった側面は大きいがポップは縮小しても消費財)。この期に及んで、本人のやりたくない(かもしれない)事をやっているってことは、ファンがやらせているという事で、自分がレイプ魔である(かもしれない)姿を鏡写しにするセクシャルな活動は見たくないのかもしれない(セクシャルに的を絞らなければ、ネタ選考型で本人が置き去りになっている活動は、運営のドヤ顔ウザスになる)。


この時に、うしじまいい肉が逆説的に浮かび上がる。セクシャルかつ本人がやりたいからやっている(ように演出された)人の極北であり、森万里子パフォーマンス・アートの文脈でも捉えられる(この間に熊田曜子ほしのあきだったり中川翔子仲村みうといったグラデーションが見える)。
セクシャルな男性原理によるハラスメントはべつに、男だけに実行権が握られているわけでもなく、開かれているのだ。特定の性的嗜好を持った男性がいやがっている女性にしか興奮しなかったとしても、そこにあるセクシャリティは演出でしかない。殴ったら殴り返されるのだ。この人痴漢ですと手を取られたら主従関係は逆転する。そういった男性のセクシャリティの暴力を、小学生女子に奪われるのが、漫画/アニメ作品『こどものじかん』だと言える。冤罪だとしても。


ウーマン・リブ運動でも、マドンナでも、おされヌード(セルフ・ポートレート)でも、ある種ネタ対象としての側面も引き受けつつ―受け流しつつ―、長年セクシャリティ実効支配権を巡る争いは連綿と続いてきた(そんな知らないのでサラっとだけ)。ある文脈に置いては、AVも主体的に選ばれる選択肢の一つであるだろうし、ヌードも若い内に美しい体を残しておきたいという、客体が取り除かれた自己表現としての側面を持つし(抑圧もあろうが)。セクシャリティの、客体から逃れ主体を獲得する歴史においても、うしじまいい肉セクシャリティはラディカルに映る(昔ワンダフルという番組を見ていて、男を食うと表現していたのを聞いて、こりゃあ大変なことになって来たゾと思った記憶がある)。ということは、恵比寿マスカッツピチカート・ファイヴかもしれないのだ。


話を戻すと。アイドルも運営も、なにを言われようとやりたいことをやってよくなった。愉快なら見るし、でなければ見ない。その位、敷居は低い。アイドルマスターよろしく、やりたきゃ自分で勝手にアイドルを消費する。オリコン○位は即ちモチベーションに繋がるけれど、定期イベントの一つであって、実は何位であっても見たいから見てるに過ぎない。ランキング圏外だから興味がないって人は、一位でもお金を払わないだろう(勿論知ってる/知らないっていう認知度はあるだろうけど、検索技術やtwitterフォロワーの偏りでかなり左右される)。金払ってんだから文句言うぞってのはもうお終いでいいじゃない。誰もがオブセッシブに振る舞う必要はない。ただそこに存在しているだけで、会いに行く日もあればケーキ食う日も映画見る日もある。するとアイドルは映画館やレストランとも並ぶ(という言い方をするとAKB劇場を思い出すだろう)。
例えばあなたが毎日通うコーヒーショップにタイプの異性(同性)店員がいたとしよう。毎日通っている内に、お昼の休憩の為にショップに通っているのか、店員に会いたくて通っているのかは漠然とする。その時に購入するコーヒーと、アイドルの握手会参加券を有したCDを購入することに違いはあるのだろうか。はたまた何の気なしに入った隣のバーガーショップの店員が、コーヒーショップの店員とはタイプの異なる、だがしかし確実に心をつかむチャーミングな店員だったとしたら。
我々がショッピングモールに行き、どの店に入るか/入らないかは自由なのだ。同時に近所で馴染みの店で買い物をするのも、生活を圧迫しない程度にはライフスタイル選択の自由だ。


そうなるとアイドルの全てを消費する、大作RPGスタイルではなくなり、本人たちは常に初めてのお客さんを相手に敷居を低く設定するだろう。日常生活の隙間に、小さな物語の断片を消費したりしなかったりする、例えるならばモバゲーやグリー的なものになるのではないか(んでそういったものとしてUstを活用できている女子流ちゃんヤバす)。


といった変化を、好き/嫌いから快/不快の時代になったと捉え、社会の根幹をなす思想的な概念が変わった/変わっているのではないかという仮説が思いつく。例えば嫌韓なんて文字通り好き/嫌いで、嫌なら見なきゃいいってのは、快/不快。といったように、今起きている対立の多くは、この思想的対立が根幹にあるのかもしれない。好き/嫌いによって強く紐付けられる〜しなければいけないっていうのは最早幻想でしか無く、各々の個人的問題でもなけりゃやりたくてやってる人を、見たくて見てるだけで、必ずしも男性原理も女性原理も強者じゃない。開かれたセクシャリティとどう出会い消費するかは、少なくとも受け手にとって自由になったと言える。言い過ぎた


本当はそんな事全く必要ないと思うが。もし今アイドルを再定義するとしたら、日常生活に乱数で入り込むバグや隠しキャラ(はたまた幽霊やお化け)のようなものだろう。彼/彼女たちは、社会に潜んだゾーニングを超えた日常の侵略者なのだ(デデーン)

体験するアイドルから音楽とダンスについて6 -音楽とダンス-


体験するアイドルから音楽とダンスについて
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そういえば最初の問題定義のアンサーをしてなかった。折角アルバムも出たし、前山田健一を主としたももいろクローバーの楽曲とダンスを紐付ける話が出来ればと思います。いやアルバムの話はしないのですが、アルバムへの導入・助走としてうかつに切り捨ててられない、そもそもなんでこうなってるかを分かりやすく説明できるよう頑張ります。またどうせ長くなると思いますが、最後までお付き合い頂けたら幸いでございます。


まず自分語りしますね。御多分に漏れず自分も怪盗少女が入り口になった口なんですが、正直最初に聞いた時は、奇抜だけども最近のアイドルはこげな変な曲もやるのか、ただ(他の曲は別段カッコイイと思わないし)奇を衒って変になってるのかな。というイメージでして、今よりも距離をとったジャブを打ってました。
んで、伝説の誉れ高いMJのライヴなんですが、この時はYouTubeで聞いた時に比べ届いたんですね。
今なら分かりますが、もし彼女たちがアイドル史を本当に更新したのだとしたら、彼女たちのダンスが曲を牽引している部分が非常に大きいと思います。この力関係は今でも変わらなくて、個人的にはPVよりもライヴの方が断然ショックが大きい。
そこから行くぜっ!怪盗少女を何回も聞いて自分なりにこの曲を納得させる過程で、これJ-POPの最先端だろという興奮に体がガタガタ震えてたんですけども。それは同時に、自分なりの答えを裏付けるように新曲が機能する、という意味でもあり確認作業になっちゃう恐れもあったんです。が、次に届けられた曲がTOKYO IDOL FESTIVAL10でやったココ☆ナツな訳ですよ。コチラの甘い予想を完璧にブチノメスバカ曲。それ以降は、混乱と同時にももいろクローバーの事しか考えられない期に突入ですよね。なんですよ。



少し迂回しますが、自分はヴィジュアル系の音楽が好きだったりするのですが、この頃よく聞いていたバンドは、今や当たり前の前提にすらなってしまっているんですが、クラブカルチャーのサウンドじゃなくて、その構造をバンド・アンサンブルに落とし込んでいる部分で。具体的に言えば、一曲の中で複数の曲をMIXして繋いでいるような所なんですが。その断面がクリアに見えると、転調やプログレっぽいとか言われたりするのですが、そういった洗練とは何か異なる、好きな曲の好きな部分だけ繋げたら最強じゃねっていう。これがヴィジュアル系シーンの安直なスクリーモ化に食傷気味だった自分にはまったんです。以降そういったバンドを掘るのが趣味になったというお話なのですが。これが、前山田健一の怪盗少女分解の時に非常に役立った。


前山田楽曲はそれどころじゃなく、更にカットの精度が細かいエディットが施されているという部分が最初に耳に飛び込んでくるのですが、あえてとか狙ってだと思っていた部分が、彼なりの快楽原則に従っていることが同時に浮かび上がってきて。すると今までナメてた部分が単なるポップソングとしてちゅるっと耳に入ってくるようになり。言葉は違うのですが、つまりこれは日本のフックソングなんだと思ったわけです。K-POPの文脈で語られるフックソングは、むしろココ☆ナツの方が近いのかな。ちげえか。ええと、だから前山田さんの曲にはフックしか無いんですよ。それが普通、美メロとか泣きの旋律とかに行きがちなんですけど、前山田さんはモーニング娘のセクシービームとかホイッだけで、一曲にしちゃっているような所があって。玉ねぎの皮を一枚一枚向いていったところで、コアの部分が無いんですよね。いつまで経っても断片のアイデアやフェティッシュしか見つからない。これってベタに楽曲に落としこむとandymori的なものになると思うんですよ。



簡単に言うと、やりたい音のやりたい所だけやってサッと曲を終わらせちゃう(コレが彼らの魅力の全てという事では勿論ない)。でもこれが同時にロックの足枷を浮き彫りにしていると思っていて、やりたい部分だけだと曲じゃなくアイデアにしかならないので、最低限のABサビCって構造だけはいじれない。しかしそれさえうっちゃれば、全部サビ、全部好きな所みたいに出来る訳ですが。これをどうやるかが問題だったわけですよ。


いやPro Toolsとか初音ミクとかとっくにあったし、ダンスカルチャー、ナードコアの文脈で、エディットとかカットアップものはそれなりに聞いてたつもりなんすけど、アイデアの手触りこそ最初は惹かれたものの、どこか大喜利になっていっちゃって暫く聞いてなかったんですよ。だからtofubeatsのRemixとか入ってるのは、分かりやすくソコの文脈だと思いましたし。
ただポップソングにしてはアイデアの数に比べいかんせん長い。いっとき楽曲がCDからmp3に変わっていく過程で、曲は長くなっていくなんてどこかしこで耳にしましたが、前山田さんのアイデアはホント剥き出しのゴロッとしたアイデアで、お膳立てもフォローも一切ないんで、たぶん一曲に30曲とかそれ以上のアイデアが詰まってるんだけど、曲は4分程度でまとめてくれるんですよ。これって、いわば一曲が5秒とか10秒になってるってことだと思うんですよね。自分が前山田さんの作るポップソングの経年変化を説明する時にいつもする喩えが、フリッパーズ・ギター→(ドラゴンアッシュ→)オレンジレンジ前山田健一なんですけど、これは一曲が包括する曲数が上がっているという話でして。前山田さんの作曲で一番感動しているのは、オレンジレンジまで存在していた元ネタの地場に縛られていない所なんですよ。フリッパーの頃は、完コピとか原曲への愛とか元ネタディスクガイドみたいな文化があって、DAになるとサンプリングとオマージュ文化になって、レンジの頃はうろ覚えメロディへの無邪気なアクセスになり、ついには誰も前山田健一楽曲の元ネタについてなんて気にしなくなった訳ですよw。ばんざーい!パクりだなんだってガタガタ言うやつを相手にしなきゃなんないくらいなら、元ネタとかどーでもいいよー。
しかしこれは、前山田健一ヒャダインとして培ってきたエンターテイメント性だったり、ナードコアだったりキャラソンの文脈を背負うクリエイター前山田健一さんへの評価であって、別の人や自分に書いている曲とももクロの曲にある決定的な違いによって、もう前山田ヤベーからアイドルは別にいーやとは思わせないんです。


1でも話しましたが、自分はももクロのライブを見て始めて、本当の意味でアイドルが歌って踊る意味をつかんだと思いますし、それを体現し続けているグループだと考えています。それ以降はmp3だけで聞く音楽が全て色あせてしまう程の革命で。以前まで遡って、様々なアイドルが音楽とダンスをシンクロさせる為にどのような経緯を経て、Pefumeや少女時代がどういったステージで戦っていたのかに、遅ればせながら気付かされ。それについて、この連続アイドル語りで多少語ってきました。この体験は感動でなんか語らないとあふれ出る勢いだったんですよ。
自分は前のシークエンスでロックの足枷の話をしましたが、優位性もその一方である筈で。それは最初の方にも書きましたが、アイドルちゃんは自分で曲をかかないしアレンジを考えないし楽器をつかって表現をしない、という思い込みに端を発していた訳です。しかし、実際に見たライブは全く異なっていて、彼女たちの振りやフォーメーションのひとつひとつが、楽曲をまさに演奏することでライヴさせている部分の感動だったのです。つまり、ライブ以降感じる音数の少なさは、彼女たちの身体性から出されるダンスの音数で。例えばこう手の動きがキックの裏のリズムになっていて、歌詞がその動きのコールアンドレスポンスになっていたり。また単純にファンの人達の声があることで完成する部分もあって、見る度に曲のアレンジが洗練されていくように感じたり。またライブに行く前までは全く興味のわかない楽曲も多くありましたが、ダンスを見ることで音の意味を変えて、踊っている人を見てやっと、だからここの音がこうなってたんだと分かるようなものも沢山あります。


つまりももクロの音を全部聞きたかったら、ライブに行かなきゃ聞こえないんじゃないかってことなんすけど。この感じって実はMC BATTLEに見出してたモノなんじゃないかって気がしていて。現場をロックしたもん勝ちってMJのももクロと同じじゃんみたいな。ただMC BATTLEって見てる側もやってる側も、リアルタイムで作詞作曲をしてるようなもんだからハマると演出の施された音源に懐疑的になるし、ドメスティックなものにフォーカスを向け現場思考になるけど。落ち着いて考えりゃ音源も面白いし、海外にも死ぬほど現場があるってのは当然で。現場って魔法がかかってて、演出を極力自力でしないといけないから本質が炙り出るみたいな気分に陥りやすい。だからここまでいっておいてなんですが、自分は現場主義が苦手なんですよ。だから実際の土地を表す現場ではなくて、リアルタイム的なパフォーマンスってことだと思うんですよ。たまにももクロのUst見てると、口パクじゃないのがいいって言ってる人もいるみたいですけど、普通に口パクもオンマイクも両方ありますよね。でもそれによって、それを知っても関係ないですよね。ももクロの持つある種の暴力性って、こういう所に現れていて。例えば、事故みたいな生放送に相対したら編集のクオリティも上がらざる追えないし、結果パンチラインだらけみたいな映画とかドラマもアニメも出てくるわで、全部がももクロみたいになってるとか思えて。あと本・ブログで腰据えて書く文章に対した、Twitterとかfacebookだってそうじゃないか。現場でのみ体験できるパフォーマンスの価値が上がってると思いきや、現場的なリアルタイム性を作品単位に落とし込める作家が、現実の場所すら相対化してしまっている。といった感じで一つのグループの中で現場主義と作家主義がせめぎ合って結果生まれる総合的な何かが、ももいろクローバーの魅力なんじゃないかと。しかもももクロUstreamっていう武器があるので擬似的な現場を立ち上げてくれるんですよね。ももクロの楽曲とダンスが強くシンクロしたパフォーマンスとUstの相性って抜群で、一曲だけ歌うスタジオライブや、PVでは掴み切れないアイドル性の気付きを促してくれる。また椅子に座ってビール片手に見たり見なかったり、のめり込み過ぎない距離感があって、遠足の準備みたいにすげえワクワクしながら頭がフル回転するんですよね。


更に、某イベントにおける前山田さんのももクロの作詞作曲の話は、自分が考えてきたこういった話を裏付ける、どうすれば音を出すようにダンスを踊るのかの説明にもなっていて、核心を深めたのですが。例えばユニゾンの多いアイドル楽曲の中でも、ももクロは取り分け一人ひとりの声を聞き分けさせる曲が多く。これはアメリカのアイドルに非常に似ていますが。最もわかり易い例が、今は脱退してしまった早見あかりの、歌が余り好きでないという個性によって、ももクロのラップは進化してきた側面があって。それ以外にも彼女たちのキャラクターを知っていれば知っているほど、なんでそこでその部分をこの人がこの声で歌っているのかが納得できる話しをされていまして。声のディレクションなど自分たちで考えさせるようにしているらしく。実際に楽曲制作の際には面談をするらしいですが、声のディレクションや楽曲振り付けのアイデア出しも積極的にメンバーにやらせるという話を聞いた時には、本当に編曲やダンスアレンジの作者なんだと逆に笑ってしまいました。


最後に、自分はももクロと同じスターダスト所属の、私立恵比寿中学(エビ中)っていうアイドルグループがほぼゴールに近いんじゃないかという位完璧に好きなんですが、その彼女たちの楽曲を手がけているのも同じ前山田健一なんですね。



正直楽曲的にはエビ中の前山田の方が暴走が徹底しているし、アイドルとしての武器を何一つ有さない最弱さと最強のタッグを組んでいるとは思うのですが。逆に唯一、前山田健一の作るポップソングに勝ってしまっているのが、ももいろクローバーだと思うんですよ(上記した鬩ぎ合いの部分ですね)。
Z伝説のおふざけにさじを投げてしまう言葉も眼にしますが、それはちょっと彼女達の実力を舐めてるんじゃないかと思うんですよね。俺あの曲フザケてるとかそこまでは思わないんスよ。例えばBLUE!の所とかって、アレがないと、もしあかりんがまだいたらここの部分は…っていう想像をしちゃうと思うんですよ。でそれって過去への憧憬で、この曲って震災をダイレクトに、しかしシリアスでなく、かといってそんな事起きなかった架空の世界のお話にもしてないじゃないですか。地震の前の世界に帰りたいって世界観じゃ無い。地震は確かに起きたしビビるけど、それを前提に前を向かなきゃって所と、あかりんは抜けちゃったけど、って所を同時に歌っているからあのBLUEっていう距離感はこの曲には絶対に必要だったし、それって超マジでしょって思うんですよ。名前についたZだってそうだし。マジ=シリアスではないし、笑ってるからって舐めてる訳じゃないって、それ実生活でも同じだと思うんですよね。深刻な顔で難しい問題を語るばっかりがダイレクトに問題と向き合うってことじゃないと思うんですよ。アイドルがガチにアイドルらしい歌をうたうのがアイドルだってことじゃないと思うんです。そういうのが好きな人、好きなタイミングは自分もありますし。今アイドルひとつとっても、音楽以外でも、めちゃくちゃ沢山のエンターテイメントは有るわけで、好きなものの断片だけでトータルコーディネイトしてしまうようなモノだってガチなんだって勇気をもらえるんですよ。



最後にひとつ。K-POPからAKB、地下アイドルまで抑制・抑圧のダンスなのに対して、開放・爆発のダンスを採用しているももクロは特殊だって話。
抑制が効くと少女から女性へと変わるという話を以前しましたが、凄く若い東京女子流でさえも(コンセプト的に)抑制しています。このくらい若いと短期間で身長や体型に過度な差が出てしまう為、振りを揃えるのが難しいですし。フォーメーションが進化しているので、うまい人とうまくない人の差の間で、ダンスを揃える要請に答えた結果だという話は前にしました。
ももクロの採用している全力パフォーマンスのように、個人の実力の120%を全員に出させたら振り付けは揃いません。そのせいかフォーメーションの過程で、あえて横一列になり同じ振りをし、バラバラになることを憚りません。またそれがすなわち拙さにならないのが彼女たちのチャームになっている。つまりももクロのダンスはズレが最初から予定されているのです。それは声・ユニゾンの話でもした、キャラクターと声のディレクションが紐付けされている事と全く同じ話です。
地下アイドルは、むしろ自分で自分にかすアイドル性かくあるべき世界観に近づくことが自己目的化している側面がある為、理想とするゴールが端から違う。またAKBも地下アイドルの手法を取り入れているので、近い所もあるのですが、今の規模に置いてのメディア戦略でいえば最近話題になった江口愛美等から分かるように、システムのこと(流動性が高い)も人数のこと(規模が学校な上、共学ではない為、目が異性でなく同姓)も考えた上で(ゲームマスターには絶対に勝てないがゲームは続く)、個別のキャラクターよりもタイトルが上位概念に立っているという部分が突出している。つまりAKBはモンハンとかMMORPGですよね。MMORPGなら変えの効かない(融通の効かない)パフォーマンスは足枷にしかならない為、誰かがやめたらできない振りはない。
そういった意味では、パフォーマンスの内実じゃない部分で少女時代に近い。あれヘアスタイルとか衣装が結構重要で、ももクロに比べるとAKBもソシも俯瞰で見て同じ人がたくさんいる群れですからね(勿論没入からの推しはありますよ。いやそれはアイドルじゃなくてどこにでも。松屋だったら俺うまトマ推しだし。そういう意味で全て株券ですよ)。
それらに比べると、ももクロは曲に限らずダンスも文脈がひもづけられたキャラソン化している、ということだと言うことが言いたいわけです。まあ印象だけで話してますけど。ももクロは殆ど二次元というか、三次元を二次元に読み替える要請が強い事は確実ではないでしょうか。
そして殆どのプロダクトがそうであるように二次元的なアプローチは、抑制によって齎す事が当然のように振舞われていますが、舞台上のキャラクターよりも、むしろ日常生活のキャラクターをアイドルにしてしまう方が、二次元的になる一つの例だと言えるでしょう。
これは京アニ的な世界観が受け手の教育を促し、その客を信じているからこそ出来るプロデュースかもしれませんし。彼女たちの存在そのものがレアケースであることもあり得るでしょうが。個人的な見解としては、Perfume型の育成方法が普遍的に模倣可能だという証拠なのかなと考えています。Perfumeの時だって彼女たちはレアケースだと言われ続けてきたワケですからね。
一言でまとめれば、プロダクトとして売っているものが、頑張ってる人か、楽しそうな人かの違いですかね。俺はやっぱ、やってる人が見ている人より楽しそうなものにしか今は興味ないですよ。
もし本当にそうなら、Perfumeと違って決まったジャンルの無いももクロは、アニメがワンクールなように常に「作品」が変わり続けないといけないかもしれませんね。それでも釘宮さんがずーっと同じキャラをやってるように、作品が変わっても、中の人と共に作品を跨いだ物語を意外とちゅるっと受け入れる素地はもう出来上がってると思うんですよ


http://d.hatena.ne.jp/ATOM-AGE/20110906/1315312222