モリのアサガオ

大抵一話を見ればこのテーマを使って何を語るか、ドラマ内で出す答えのベクトルは分かるもんなんだけど、答えが第一義じゃないであろう作りだった。大概それはそれで主役の苦悩するポーズに行きがちなんだけど、これはその他の人間のプライオリティも決して低くない。
二話序盤、管理主義的な刑務官を印象的に描いておいて、間に情緒的な香椎由宇を挟み、最後に同じ刑務官が言う言葉でショックを与える。それを平田満が演じる死刑囚に魔が差す展開を通して描く、綺麗なプロット。偏りそうで結局誰にも寄りかかれず考えざる追えない。
マイケル・サンデル教授の正義の授業と同じことをドラマでやってると思う。絶対的な力を持つ何かが、構造的に抱えてしまうある矛盾を、極端な喩え話で炙り出す所が哲学的命題みたいな感じがするのかな。あれもそうだったんだけど、ばあさんとか小さい子供とか自殺した中学生とか、属性に貼りつく感情的なサブパラメータの使い方がいやらしい。そんで最後に自殺に追い込んだイジメ首謀の殺された子供の親っていう、ややこしくてサブパラメータの置き場のない人間を最後に出すっていう、これも綺麗でいやらしい。
例えば、最後ら辺の複雑な感情を抱えた濱田マリが、序盤に水商売風の出で立ちで平田満を追い返すシーンがあるから、最後で言う(序盤ではこの人の言うことは信用できないと思わせぶりな)刑務官の言葉に首肯も出来ないが即答で反論出来なくなる。
見ている間は当然フォーカスされる人間の成長、及びその描き方を見るわけだが、同じ様にワンシーンしか出てない人間も成長し、結果的に情状酌量に見えた死刑囚が一番レッテル張りで成長を拒んでいたっていう構成が見事。刑務官も香椎由宇もブレないだけにこの成長に関わる遺族が際立って見えるんだよね。