Q10
冒頭モノローグでうわあ木皿だ、としたワクワクを下回らずずっと気持ちイイテンションは続くんだけどって感じ。ぬるたいコミュニケーションを否定も肯定もしてない誠実さとかね。あづねえは棒だとか言われそうwだけどかわいかった。露骨なメタファーだらけで、指摘もクソも誰でも分かるだろうから言うまでもないだろうから省略。
後はドラマの力というか、ドラマを見るって事自体の希望とか。
前田演じるロボットは、まんま象徴アイドルの代わりなんだけど、アイドルが佐藤くんの中の悪意を増幅させる装置として機能させる事で世界を瓦解させる。それは佐藤君自体にもアイドルというペルソナが被さる話で描かれていた。
佐藤くんの悪意を増幅させる前田、という一話を見て思った感想に加え、病気の友達がそうだったかもしれない佐藤君だと思うと、最後二人で笑うシーンなど、日常にひっそりとある悪意をギリギリのスリリングさで回避するヒヤヒヤのシーン。
彼にどんどん機械がはめられていって、ギリギリ生きてるけど、人間的尊厳をどこに置くのか。そして繰り返しいつもどおりの日常を描きながらも、自分もそうだったかも知れない心臓の病気を持つ友達がどんどん人間からロボットに近くなっていく境界線を描いたら怖いよね。
これは個人的な興味ですが、田中さんの演じる教師が超然とした猶予期間を使い切った大人として生徒との対比だけで描かれるのか、それとも大人も試行錯誤のすえ成長するのかに興味がある。
後これも個人的にだけど蓮佛さん良い。そこはかとなく90年ぽい顔かな、役柄的にも少し古い。今まで清純なイメージで、もう少し年上の役が多かったけど、君に届けの役以降なのかな。いい。彼女はけいおん的でもなく、外部に世界を持ってる人間でかつ物語的要請で今の設定になってるのかな。
三話の話。無意味な事を大真面目にやるってのは、通過儀礼とかイニシエーションとして実社会でも作品でも機能していて、またミスコン的なものはある種生贄なんだけど、その価値観は外部の機能とフラットに評価をされちゃいけない性質を持っているが故、成長を描くお話は底が抜けた世界をどう切り取るか、その切り取る角度によって現代的作家性の性質が変わってくる。
戦国カフェとかもそうなんだけど、木皿泉の場合、底の抜けた制度を否定するわけでも闇雲に取り戻そうとするのではなく、読み替えて別の機能を再生する。先輩のトロフィーも、AKBみたいな制服も古い歌も全部そう。
たけるんとあづねえが突出して有名人なので、大枠の作りは海外ドラマの学園モノのように群像劇だけど、俗にいう群像劇とは言いがたい。作家性が強力な推進力になってるから、複数の脚本家で書く他の作品に比べて随分独特。
ちなみに姪っ子(小1)がQ10がすっごいおもしろいよと言っていた。