うぬぼれ刑事

恋愛ドラマ特有のロマンティックラブは、かつて同じものを望んでいた筈の中島美嘉によって、ドラマティックなイベントや運命的な出会いは限りなくミニマムで充分。出会い系であろうが同じだと否定されているのだけど、それは決して恋愛に限ったイデオロギーではなく、売れるゲームもスペシャルな面白さで売れる訳ではないし、俳優はカッコよくて演技がうまいと仕事になる訳ではない。とあくまでも運や奇跡のような、受動的で必然性の無いものはこの世界では限りなく軽視される。


このような世界観に抗う長瀬の中にある掛け替えのない恋愛感情は、西田敏行の遺伝要因(刑事の感)として、犯罪者「だから」好きになっているように描いていて。ロマンティックラブを信じている長瀬でさえ、それを疑いだしている。そのイデオロギーに対して長瀬がどう対峙するか、という部分が表出すると思うんですが。犯罪を犯した人に生まれる違和感の部分をキャッチし、反応する回路を恋愛感情とするならば、犯罪を犯しても何とも無いナチュラルボーンの相手には反応するのか、っていうのは気になる所ですよねー。


長瀬と共にこの価値観に抗う、うぬぼれ5が恋愛目線であれこれ話しあうパートでは、根拠もなく否定されている価値観に適当な理論(動物実験でも…)をこねくって無駄な一喜一憂をするんだけど、犯罪目線の時よりも楽しいし楽しそう。まー無意味だから楽しいんだけど。確かに運命や奇跡を信じて身動き一つ取らないのはバカでしかないが、それを盲信し意固地になっているわけでもないように見える。つまり結果「だけ」が欲しくて、運命や奇跡に一喜一憂している訳ではないだろう。むしろ答えが欲しいんじゃない、祭りを欲しているといえる。彼等はH「だけ」がしたいんじゃない。仲間とワイワイしたいんだ。


細かい話になるが、顔がかっこいい方がモテる的な話に対して、カッコいいけど顔がウルサイとか、話が糞ツマンネーとか、むしろ今のままなら変な外見の方が笑えるみたいな話も、ただ余談と切り捨てるには面白すぎる。※ただしイケメンに限る。みたいな厨二思想で身動き一つ取らないバカは切り捨てられ、パティシエだろうがカメラマンだろうが、モテないものはモテない。そういった顔や職業のようなステータスをパーツとしてしか見れない事は貧しさでしかない。


それと刑事モノって、どうやって犯罪者の独白(埠頭や崖の上で自白という名のテーマ語り)をスマートに演出するかっていう問題があると思うのだけれど、それとプロポーズをごっちゃにして長瀬がフラれる面白みで回避しているが、これが自己言及にもなってて、例えばミリオンセラー作家が殺人を犯した場合、犯罪者がミリオンセラーを書いたのか、ミリオンセラーを出した人間が犯罪者になってしまったのか的な、作品の評価と作者の人格の相関関係の問題があると思うが。それについて、社会的な目線はどうあるべきか。といったテーマがあるように思える。おそらく、国家の品格以降の日本のムード、亀田兄弟、エリカ様騒動、朝青龍問題、あそこら辺の話に発端としてるのではないか。こいつ強いけどムカつくとか、演技上手くて可愛いけど生意気、そういう作品と人格の問題をドラマ内で、長瀬はこの愛は本物だと、自ら犯罪に加担し愛する罪人を許す。父親の刑事の血を受け継いだが故の勘違いの愛であっても。長瀬だけは祭りを飛び越え、犯罪に加担するベタな運命論者として一線を越える。うぬぼれ5の中であっても異端な存在だと言える。これはなんども繰り返し言われる「TVなんか何となく見るもん」という冗談のような台詞で保管できる。なんとなくTVを見ながら、関係ねー第三者なくせにアイツは悪い、嫌い、ムカつくと勝手なことをいう視聴者に対し、愛が故、当事者として犯罪者に飛び込む事で、長瀬だけはTVの中(ドラマの中)の存在になり、当事者として犯罪者を自分の責任で許す。これはかなり感動的だと個人的には思う。
こんな話が、中島美嘉を好きになったのは、彼女が犯罪者だったからなのか?それとも彼女とだけは運命的に出会った、唯一本当に愛した女性だったのか。という話を(きっと)通して、どう描かれるのか、この先が楽しみっすよ。
長瀬が犯罪を許すという犯罪を犯してまで愛を貫こうとするのに対し、殺人犯の方が罪を償う決断を選択する世界の歪さがキモくもあり面白くもあり。その後ろに何千何万という謝罪を要求する社会的視線があると思うと、鉄の骨を見ていて感じるコンプライアンスの問題とも重なってくるし、よく俺が言っている、ダーティハリー問題でもあるし、なかなか楽しいドラマだすねー