古畑任三郎問題

特殊能力者や極端な天才的才能って、それ自体が主題とする時を除いて、結構見ていてつらいものがある。まず、始まりの時点でそのパーソナリティを引き受ける動機には、能力等ではない動機付けがあるべきだ。例えば警察官になった動機は「遺留品から犯人が見える特殊能力があるから」という動機にしてしまうと、その後にその仕事と向き合うきっかけを失ってしまう。つまり始まりの時点で主人公が背負っている立場から、変化を促す何かとの出会い方はもっと多様であるべきだし、そこには絶対に逃げられない重い宿命や運命なんか必要無い、それはいづれ言い訳になることが見え透いている。何故なら、出会った後に向きあうべききっかけの方こそが見えづらいのだから。新参者や臨場を見ていると、古畑以降よくあるタイプなのだが、天才の主人公だけが犯人と出会った瞬間にこいつが犯人だという答えと出会っている、という状況にはまっているような気がする。これを現代的に描く場合、知ってる情報は開示された方がいいし、皆で調べようぜって当たり前じゃない?だから複数人を描く時、その能力は極限まで無価値など、それ自体がキャラクターを特徴つけるようなものではなく、無意味に描いてくれないと中々のれないんじゃないかな(極端な言い方をすれば天才は「天才キャラ」でしかないというのが今のリアリティじゃないすか)。謎は内面じゃなくて外に。入れ替え可能な個性(キャラ)の集まりの中で、自由な可能性を関係性を使って描いていれば。謎は外から勝手にやってくる筈だから。ぶん投げちゃった方が二次創作とかもやりやすくねーかな。
一言で言うと、ガチで必死にならないで余裕かましてる主人公にどうやって感情移入するんだよって話。そういう絶対的な存在に宗教的に縋り付く人間の内面なら兎も角、超越型主人公に感情移入しろって土台無理目な話じゃね