小沢が旅に来る理由


僕の中で小山田圭吾は、自分と一緒に成長してきたとかいうと、烏滸がましいけれど、俺も結構大人になったぜって思っても、全然距離が縮んでいない人で。少し上のスゴイかっこいいお兄さんが(実際には少しどころじゃなかったとしても)、フリッパーズ・ギターだったんだけど、僕のそこの部分を擽ってくれるのは、小山田圭吾だったわけです。そして小沢健二も、LIFE辺りまではそうだった。


これは何かにがっかりしたとか、諦めたとか、飽きたとか、そういうことでは全く無くて。二人は未だに超リスペクトしてて、完全に天才だと両手を上げる存在であることは間違いない上、うっかりすると自分と同一化して、我を忘れてしまうしまう数少ないアーティストなんだけど。小沢健二について、何時ぞやからか附に落ちたんです。


恐らく恣意的に映るだろうけど、僕にとっては、MJ―マイケル・ジャクソン―がとてもいい比喩になってくれた。特に、ずっと大きい子供然とした振る舞い―俗にアンファンテリブルとかって言われるけど―なんかは特徴的。別に『さよならなんて云えないよ』が、MJの『ブラック・オア・ホワイト』をサンプリングしているからとかは、関係ないんだけど。小沢健二の音楽って、常に大人への背伸びがテーマに成っているように思うんだよね。


犬期は、今で言うはてな的な虚勢(だから尾崎とか言われたんだろう)。LIFE期は、異常なまでに「僕は大人です」という歌詞を入れることで既成事実化しようとしている。球体は言うまでもなく、大人っぽい音楽としてのJAZZ。Eclecticはこれまでの総決算のように、大人っぽく見られるための背伸びが総動員されている。


アートワークの素っ気なさ。テロに対する言及(これは後々環境問題として後を引く)。セクシャルな歌詞や曲名のカッコつけ方。ヘタクソだと言われ続けている歌唱法の変化(次は声そのものを消した)と、外人コーラス(イメージだと黒人の太った母親風コーラス)。
発売当初は、大人っぽいセクシャルな小沢だと言われていたけど。しかしこんなに大人的な記号に溢れているのにも関わらず、どう聞いても全く大人の音楽には聞こえないんだよねえ。一般的にはAORやR&B的なジャンルなんだけど、黒人的なマッチョ性が全然感じられないへろへろな声で、多分NYで録音されているんだろうけど、明らかにNYでかかっているR&Bではない音楽を作ってしまう才能なんて、後にも先にも小沢健二以外聞いたことが無い。いつも通りジャンルは違うんだけど、いつも通りザ・ベストテンなんだよね。


ここまで背伸びして、いや背伸びをするからこそ、自己のアンファンテリブル性を露呈させてしまうかわいい小沢健二は、今も昔も変わらず手の届かない天才なのだけれど。今回の復活の話も、非常に小沢健二らしくて、微笑ましい気持ちで胸がいっぱいになった。過去に、自身のディスコグラフィーの一部を廃盤にした事があったんだけど、あれも今考えるとめちゃくちゃ子供っぽい。今回はその逆に、みんなの聞きたいあの頃の曲も、望まれるのなら平熱で受け入れちゃう器の大きい僕って大人でしょ。って聞こえた。超かわいい。


こういった、子役アーティストの歴史って、マコーレー・カルキンとか、色々いるんだけど、なんかMJと重ねちゃうな。なんでだろ。ブギーバック期も大好きだけど、こう言う風な附に落ち方をしてからは、昔よりももっと大好きになったし、新作が最高傑作の人にグレードが上がったんだよね。SENSUOUSとかも、自分と差別化出来ないほど大好きだったけど、人間的な興味は、断然小沢健二の方がコクがあって大好き。環境問題だとか、そっちに行ってる的なポーズもいいけど、オザケンは自分にしか基本的に興味がないだろうから、その枠組で言えば、環境問題だってオシャレな装飾品でしかないよね。どうせチケット取れる訳ないけど、今からもうずっとにやにやしっぱなしだよ。
いいタイミングだと思ったんだけど、想像よりも上手く書けないもんだな。