ROOKIES-卒業-
今さらですが、ROOKIES-卒業-を見ました。感想は変わってませんが折角なので、記事に纏めてみたいと思います。
ある事件により一度は夢を諦めヤンキー化した野球部員が、一人の教師に触発され夢の甲子園をめざすと言う、俗に言うヤンキー+スポ根なのだが。TVドラマの時点でその殆どの問題は解消されており、ヤンキーに見えなくも無い夢いっぱいのスポーツ少年達のスポ根モノになっている。かと思いきや。気合でただ闇雲に甲子園を目指す、野球もドラマも説明も無い、普通に面白くない映画だった。
特にドラマパートの説明が全く無いのは、映画的に致命的。ヤンキーっぽい彼らが誰なのか、一人ひとりの特徴を最後の最後まで説明してもらえない。そして何故甲子園を目指すのか、急に出てきたこいつは誰なのか、こいつは必要なのか。ドラマ版を見ていないと不明瞭なことが異常に多い(因みに俺はTV版見てます)。肝心の野球シーンも、その全てを勝俣(「シャー!!」←気合)で乗り切ると言う、野球的なカタルシスを台無しにする大味な展開。出てきてシャー(ストライク!)、出てきてシャー(ホームラン!)で夢は叶う!何故なら、夢が…俺たちを…つよく…
ニコガクナインを演じる若手の俳優達は、みな頑張っているのだけれど。ヤンキーが持ち前の負けん気で夢を叶える、っていう部分を描いてくれないので、泣きたくてもなかなか泣かしてもらえなかった。またラストシーンは噂に違わぬ衝撃でした。
ここから、この映画の本質部分。何故ドラマも野球も盛り上がらないかというと、それは2時間も使う割にライバルを全く描かない為。このライバルによる盛り上がりとは、スポーツではなく興行的な盛り上がりであり、映画的な盛り上がりと直結する非常に重要な要素。何故なら誰かの夢が叶うと言うことは、誰かの夢が破れると言うことで。本質的にそもそも興行とは人の「挫折」を見に行くものなのだから(成功とは挫折までの伏線である)。そしてライバルの代わりに人格を剥奪された、ゾンビ、宇宙人、機械人間、のような相手高校ナインが描かれる(洋画における上記の対象が何の比喩か考えれば分かりやすいだろう)。
ニコガクナインが声を荒らげ気合を入れ絆を深め合っている間、相手チームは元より、この球場にニコガク野球部以外の人間が、まるでどこかにいってしまったかのように見える(本当にスタンドに人がいないように見える)。これは、彼らの絆が強まれば強まるほど、他者や外部の存在感がどんどん希薄になっていくという演出であり。意図的かどうかは分からないが、他者を無視する方向にスタッフの気持ちが向いている事が分かる。つまり今回の劇場版は、招待券を持っていなければ見ることが出来ない、ファン…スレイヴ限定ライブだったのだ。
で、映画的な感動を置いてけぼりにしてまで、この排他的な演出法で表現しているものとはなんなのだろうか、というと。ヤンキーや野球部といった、ホモソーシャルな関係における排他的メンタリティの表現だと自分は考えたわけです。一部の感想を見ていて一番良く見かけるのが、宗教的な気持ち悪さと言う感想だったのですが。この事実に、顕著だと思います。集団における排他的なメンタリティを具現化するような演出をしているのだから、宗教という言葉が思い浮かぶのは必然。「夢にときめけ、明日にきらめけ」や「Go!ニコガクGo!」という言葉は、某団体における「最高ですかー」や「修行するぞ」と同じ効果を持っているということです。もしかすると、木更津キャッツアイ批判映画なんじゃないですか(嘘)。この映画はスタッフの意図と関係なく(いや、厳密に言えば最初に洗脳されたのがスタッフです)、一度夢に敗れた人間が(私を)信じれば夢は叶うという言葉に縋らざる終えない心理、その結果、教祖を狂信的かつ盲目的に讃えるという構造をフィルムに焼き付けてしまっている。狙ってやったわけではないでしょうがこの演出は、ファンの心理をすくいとると同時に、元ヤン野球部のメンタリティまで表現する。という凄まじい荒業をやって退けている。この構造は皮肉でも何でも無く評価できるでしょう。数多くのヤンキーモノや、スポ根モノを始めとした、ホモソーシャルな関係性。また集団心理が宗教性を帯びる事から逃れられないことを、この映画から学ぶことが出来ます。
あえて嫌味を言えば、アニメの二次創作として山もオチも意味もないような同人誌を、嬉々として収集し楽しんでいる人間が、劇場版ROOKIESを面白いと言う人間が理解できない、というような発言をしてしまうことの方が、理解できない!一緒だよ!!そして、そういった別トライヴごとの宗教が、教祖同士でなく、信者が拳を痛め殴り合うバトル・ロワイアルと化している現実の方が、この映画よりもなによりも最も恐いわけですよ。オタクVSスイーツ!これは、90年代消費経済の末路ですよ。そういった狂信が消費活動をドライヴさせてきたんですよ。このまま行ったら、個別のトライヴがクロスオーヴァーを回避する方向に向かい、ゾーニングは市民レベルで徹底され、米のように隠蔽された自由を獲得し、ブレードランナーやウォーリー的な人工的な支配を甘んじて享受する、洗脳社会を多くの人間が望んでいるということじゃないですか。元々人と人が分かり合うなんて無理なんだよ、バーカ。
もしかすると、バットで人を殴ったシーン以降は、洗脳によるバーチャルリアリティ映像なのかもしれませんね(タモリ)…音楽どーん