サマーウォーズ感想 ネタバレ全開
■小磯健二の話。主人公のケンジは、外部の視点で些か過剰で普通じゃない陣内家において、冷静ではなくとも、普通のアングルを齎しています。これは、終始ケンジ視点で描かれることから、とある田舎の物語に"巻き込まれる"形のアドベンチャーという骨格になります。
正直ケンジが普通か?と言われれば普通どころか、平均的な高校生にしてはかなり数学が得意であるといえます。が、ここでいう普通は「視聴者の目線であること」であって「一般的といえる数学の能力を持っている」ということではありません。あなたよりも数学が出来るということと、ケンジの視点を介して旧家のお屋敷を覗き見るという(その為かケンジのアングルに入らないものは徹底的に描かれません。ただ一つラストの花札バトルを除いて)、憑代としての役割であることは矛盾しません(例えば映画マルコビッチの穴のイメージです)。
人には好きな事や得意なことがあるかと思いますが、その程度のものであって、決して「数学日本チャンピオン」という肩書きは持てないし、世界的事件に発展してしまう暗号の解読にも失敗してしまう程度に普通です。決して世界でただ一人の暗号の解読者ではないのです。そのミスリードは、前半から中盤にかけて、物語の歯車になります。
特に栄ばーさんが死んで以降は、しばらくケンジの居場所がありません。多くの視聴者と同じく他者だからです。陣内家の一同は他人に構っていられない状況に、まとまりをなくしてしまいますが。ケンジは他人だからこそ、栄ばーさんの死の意味を陣内家とは別の次元で受け取ることになります。それは第二、第三の犠牲者が出てしまうかもしれないという危機感に他なりません。ケンジが、ラブマシーンにアバターを奪われた(選ばれた)のは、それによって人一倍危機感を感じているという部分を補強するかのように作用します(これとは別の次元で、陣内家にいる他者という属性を、侘助の分身であるラブマシーンが好んで奪ったという意味もあり、詳しくは侘助の章を参照してください)。
昨日(だったっけ?)初めて話した栄ばーさんの気持ちを、他人として(栄ばーさんの憑代として)陣内家の空気を読まずに汲み取るケンジは、家のことに執着し、世界のごたごたから目を背けようとする陣内家の女性に、万助とは別の意味で、まるで栄ばーさんが、まず外部へ視線を向けたように、外部への視点の重要性を主張します。少し前まで、他人の家の物語に巻き込まれたケンジ君は、ここでとある田舎の物語が、ネットによってつながっているセカイの物語として、当事者性を帯びていることを、観客と同時に受け入れ、物語りは急速にひとつの方向に向かってスピードを上げていきます。
物語は、そんなにとんとん拍子には行きませんが、まずは、去勢された男性性である陣内家のオトコノコ達を鼓舞し、その後、栄ばーさんという陣内家にとっての当事者性を持つ人間の遺言によって、女家族も再起動を始めます。もちろんこの後、ケンジはその数学の才能を発揮しますが、それは陣内家の面々がもつ役割と同列とみています。こういった進行と同時に、誰が誰だか分からなかった陣内家の面々も、ケンジと同様、各々の当事者性を帯びるにつけ、区別が付くようになる演出が見事です。
■陣内侘助の話。侘助は、加持さんばりのシニシズムが売りのようですのでw豊かに感情を露にはしませんが、その代わりに雄弁に語ってくれるのが人口A.Iであるラブマシーンです。
論理的な説明はともかく、物語的な説明は侘助の本心の演出でしょう。
例えばケンジの章でも補足として書いていますが、何故ケンジのアバターがラブマシーンに選ばれたかと言うと、ケンジが陣内家にとっての憑代だからで。陣内家に受け入れられたい侘助が陣内家に入りたい時に、陣内家内の他者であるケンジが御誂え向きだったためでしょう。
なぜなら侘助は陣内家、ひいては栄ばーさんへの執着が人一倍強く、唯一迎えてくれる犬にフォーカスがあう演出や、衛星が陣内家に落ちる演出は家に帰りたいという願望のメタファーだと思えます。
最後、たった数十人のアバターを相手に花札勝負に乗ってしまうのも、論理的な説明もされますが、それよりも自分が考えるのは、花札が栄ばーさんを連想させるということであったり、陣内家の面々と花札で遊ぶこと=陣内家の承認であるからではないでしょうか。
侘助は世界を混乱させ、陣内家をこれまで以上に混乱させながらも、栄ばーさんの強烈な母性で受け入れられ(腹を切れというのも、家族としての承認の証明でしょう。これについては栄ばーさんの章で後述します)、明確な悪役として描かれることは終ぞありませんでした(悪役がいるとすれば、それはアメリカであって、まるでアメリカがOZを支配しようとしているだとか、ちょっとそれ自体は、なんかジョンとヨーコとか言って、滑ってた気がしますが)。
家族になるんだったら、なんでもかんでも飲み込める強烈な母性がサマーウォーズには描かれているように思います。包括的母性ばかりで厳しい父性が描かれていないと、わがままなオトナコドモばかりが、女性に隠れて(隠れてるのは相談の段階)噴きあがるのも頷けますね。
■陣内栄の話。結構言われていますが、栄ばーさんのスペシャリティは、各々の特性が明確に打ち出されるサマーウォーズの中でも圧倒的です。正直リアリティとはかけ離れたキャラクターでしょう。
しかし何故自分は、栄ばーさんに懐かしさを覚えるのでしょうか。何故ならば、知っているのです。現実にはいないが憧れとして表現されてきた美しい日本人としての栄ばーさんを。
今、自分の個人的な興味で、地方自治体と任侠というセーフティネットについて考えていたせいもあってw(そもそも任侠とはファンタジー)栄ばーさんのシークエンスは、任侠的な凛とした美しさを、声や(沈黙や)動き(アップ)、また写真や筆書きの手紙のようなガジェットによって美しく描かれていて、とても痺れます。
今も昔も、そんなカッコいい人間はスクリーンの中でしか見たことがありませんが、ファンタジーだからこそ、こうありたいと偶像化していたことは確かで。こんなばーさんがいたらなぁ、と思わせることに成功しているのではないでしょうか。
引力に引っ張られ、周りを回る衛星のように、普段核家族として実家を離れている人々も、アメリカへ逃げている侘助が家族に反発されながらも、栄ばーさんに承認されることで、飛び級的に陣内家にログインしようと考えたのも、栄ばーさんの強烈過ぎる個性と、強大な母性といった重力に引っ張られてしまう為で、そうなってしまうのも頷けてしまう凛々しさが表現されていると感じました。つまりそれを失うということは、近い将来バラバラになるということで、陣内家の面々は不安定な環境を余儀なくされます(覚えてないけどカメラも揺れてたのかな?)。
「俺は悪くないよな、ばーさんは分かってくれるよな」
といった侘助に対し、陣内家の誰が腹を切れと言えたでしょう(しかしこの薙刀シークエンスで、拒絶されても大人になれなかった侘助を見ていると、おじーさん-父性-の不在が、より一層際立ちます。いくら強くても、やはり母性と父性は、物語上の性質として変わりにはなれないということを痛感しますね)。それは家族であっても無理だったでしょう。それは他の誰でもない栄ばーさんだけが侘助を承認していたからです(山を売って渡米資金を渡したのも栄ばーさん)。しかも栄ばーさんからしたら、旦那の浮気相手の息子で、血は繋がっていません。それは逆説的に、身内の恥を身内で引き受ける当事者性を持っていたのは、栄ばーさんしかいなかったことの証明になります。
そうした過去を象徴するようでいて、普遍的な力を象徴してしまう強靭さが前半部の安定感と、失ったときの不安定感を際立たせ、物語を盛り上げてくれます。
そうした栄ばーさんの意思を誰よりも体現し、憑代(ハブ)として家族に伝染させたのが、他ならぬケンジであることは(その理由は)、上記した通りです。
この事から、田舎的なベタベタなコミュニケーションを是とした話ではないことは、明らかです。何故なら、近親者であればあるほど必ずしも心を通わせている訳ではないという演出だからです。
近すぎても分からない。血が繋がっていても分かり合えないことがあるということですね。これほどの圧倒的な人間力を夏希はこの映画を通して受け入れた訳ですから、並々ならぬ覚悟ではないわけで、ケンジがいなかったら、この覚悟はできなかったかもしれません。
話は少し変わるのですが、栄ばーさんの遺言で、みんなでご飯を食べなさいという場面がありますが、所々にヱヴァンゲリヲン新劇場版:破を思わせるモチーフが現出するのはとても面白いですね。エヴァでも食事は、戦の前に心の離れていた人間を一つにまとめ、みんなで揃って食べ(ようとす)るって使い方でしたよね。
■今まで当事者性と何度か書きましたが、この映画の肝はこの当事者性で、様々な人間が様々な立場で自分の当事者性を引き受ける物語です。
今回は、侘助の問題を家族が引き受ける話だったので、陣内家がOZのセカイ的なトラブルという名の物語と対峙しましたが、この侘助が変われば、その人間を抱えるコミュニティ(決して家族に限らないと自分は考えています)がその人間を引き受ける物語になるでしょう。
最後の夏希の花札シークエンスでの、世界中のコミュニティが夏希に命を預ける演出は、だからこそとても感動的です。
が、実際問題、厄介者をコミュニティが引き受けるかといえば、それはまた別の問題で排除してしまうケースも多くあるでしょう。
このような微細な演出によって、終盤のスペクタクル演出が感動を誘うことは、サマーウォーズに感動してしまった人たちなら同意してくれるのではないでしょうか。
■篠原夏希の話。そもそも見る前からポスターなどで、主人公はこの女の子ですと言っているようなものですし、大括りのジャンルで言えば、サマーウォーズは女の子の成長物語であることに異論はないかと思われます。
そして、それはこの映画に常に通奏低音として流れている、"女系の包括性"についての話だと感じました。
正直言うと、自分はラスト付近で、とてもむかついていました。それは、次世代の栄ばーちゃんとなった、夏希の子宮(陣内家)に取り込まれる気持ち悪さに耐えられなかった為です(これはもう、エヴァと比較しないわけにはいかない)。
自分がヒロインであり、成長物語のヒーローでもある夏希の成長を、どうしても諸手を挙げて喜べないのは、夏希の承認で陣内家のマイミクになる部分です。ものすごく意地悪く言えば、あれはデート商法。最後のハッピーな展開は、デート商法で一緒にローンをガンバロっ(はぁと)と、契約書を出すようなもので。そんな手、振り払うに決まってんだろ。
気持ちの悪いたとえをすると、もし自分が夏希の手をとるとしたら、むこうの提示した契約書で手をうつことは考えられません。自分が大人になれない、無駄にプライドが高いだけの糞野郎なだけなのですが。オトコノコにだって意地があって、契約書に関する話し合いが出来ないのなら、夏希の手を握って抱き寄せたりは出来ません(これから恋愛として分かり合うんじゃない。と、お思いでしょうが、これでは広義のセカイ系に取り込まれたイニシアティヴを、始まる前から女系陣内家に握られた、腰抜けプロポーズだと思え。どうしても「おめーに承認されたくてセカイ救ったんじゃねーよ」といいたくなります)。
妙に鼻息が荒くなってしまいましたが、少なくともケンジの、サイトにログインする感覚で、なし崩し的に夏希に承認して頂くという、受動的な態度は、草食系男子的な弱い父性を暗示していて、自分の個人的な感情で言えば、一度で良いから夏希を拒絶してほしかった。
例えば、数式を鼻血を出しながら解くケンジに、頑張ってという夏希に対して「黙ってて」と、一言入るだけで対等な関係性を演出できたでしょう。というか敢えてしなかったのでしょう。
自分はここに、ウォーリーや、マトリックスや、電気羊を出展とするブレードランナーなど、幸福な夢を与え続けられながら、緩やかに殺されていくSF的管理社会を見ました。描かれ方は上記したSF映画に比べたら、とても肯定的ですが。そういった旧来的なSF感こそ、サマーウォーズ的強い母性からした、無意味なこだわり、ちゃちなプライドと断罪されてしまうでしょう。だからこそ、この面白すぎるサマーウォーズが怖い。ちょっとくらい気持ち悪くたっていいじゃんね。
穿った見方をすれば、恋愛というものを女性が男性を受け入れるという構図にしたことと、広義のセカイ系であることが、お互いに補完と作用になっていて、じーさんがいないのも、家(子宮)から誰も出ないのも(子供が外で遊ばない。大きなオトコノコ達は、家の中で戦いの相談を出来ない。衛星が落ちてくる最後まで家族は家から非難しない)、そのためだとも思えます。
その為、男性は家での役割を取り上げられ、やれ戦だ、やれいざ鎌倉だ、と子供のように噴きあがるしかやることがなく。男性の役割も女性がやるのが家族の再生と見ることも可能なのです。
オトコノコにそんなことまで背負わされちゃうんだったら、そりゃドラッグでもキメなきゃ体が持ちませんよ。そういった意味で、画面上に現れないじーさんが侘助に立ちふさがる話ではなく、栄ばーさんが(女性的包括性で、なし崩しに)侘助を受け入れる話であるわけです。
母性の包括性が、オトコノコ的なものをオミットしているように見える箇所は、それだけではなく、様々な箇所に散見されます。それは何度もいろんな形で、「出て行くこと(出ない・出れない)」と「入る(入りたい)こと」として出てきます。
■池沢佳主馬の話。佳主馬萌え〜。OZでも陣内家でも万助を師匠って言ってて、空手をOZ経由でならってるって話すげー好き。
■(随時追記メモ)ヱヴァがエヴァのリメイクなように、サマーウォーズは、ウォーゲームのリメイクっていう考え方もあるのかぁ…ふむふむ。旧家であり栄ばーさんのコネが孫世代の公務員率を上げている。そのさらに下のパツキンが警官なのもそういうことか。あーこの旧家には長男がいないんだ。なんかふわっと腑に落ちたわ。
映画お葬式の主人公が、侘助なんだー。すごいなこれ。栄ばーさんの声やってた人が、緋牡丹博徒シリーズっていう任侠もんやってた人で、その代表作が、緋牡丹博徒・『花札』勝負てっ!細田、どこまでもな奴だぜっ。