ゾーニングの問題点から見る日本的インターネット作法


以前書いたしもねた - velvetdeathの続きと思っていただいて結構です。


ゾーニングについての問題点は、ゾーニングの徹底がなされている欧米諸国で噴出している問題点を参考にするのが妥当だと思う。欧米諸国のゾーニングの徹底によって生まれている問題は、ゾーニングによって行われる文化の横断の断絶だって言われてる。つまり見たくないものを見ないことにより、互いの文化への寛容さが損なわれていると言う事。そういった社会でおきているのは、見せたくないものを管理されたまま育つ人間にとって、見たことが無いものは存在しないものとして扱われるって問題。そもそもゾーニングされた自分達のコミュニティ以外の文化を知らない。知らないって事は教育もされないので、村八分、差別、いじめ、細かいところだと家族に精神病院に行かされるって話は想像以上に溢れてる*1


例えばホラーの定番、自分達の街や旅行先でジェイソンやレザーフェイスに襲われる話ってのは、アメリカのどこかに、自分達の知らない自分達を脅かす存在が、隠れて命を狙っているっていう恐怖で、それはホラーの題材として更新されながら、普遍的に存在していて今なお衰えていない。何故更新されて受け継がれているかと言うと、世界に存在しない恐怖はモチーフにしても全然恐くないからで、大体失敗してるホラーってそこがあるかないか*2日本のホラーと海外のホラーの、ドメスティックな進化の有り様に顕著だよね。それは潜在的に、自分達が追い出したインディアンに対する背徳感が元になっていて、銃所持の問題も、恐怖に追い立てられたゾーニングの結果だってマイケルムーアが言ってたwちょっと話がアメリカの文化により過ぎて、浮世離れしているように見えるので、話を変えまーす。


例えば、クリークっていう制度(?)があるんだけど。日本のスクールカーストをより徹底したようなものと思ってくれればいいや*3そこには、同じ年齢でおんなじ教育を受けて、お互いの姿は見えているにもかかわらず、コミュニケーションの横断が全く無いんだよ。でも、日本であればもうすこし緩やかなグラデーションがあるでしょ。そのせいか運動会や、文化祭のような催しの表層は日本と全く異なっているみたい。ということは、恋愛や、趣味のジャンルを除いた共通の話題が合ったとしても、それが交換される可能性はほぼゼロってことじゃん。それはクリークっていう、細分化されたゾーニングの結果なわけ*4そういったものを題材にした、青春バカコメディ映画ってのが、毎年毎年世界中に存在していて、近年特にブームになっているにもかかわず、日本に輸入されにくいのは、日本にいても共感が出来ないと思われているからじゃね。というか、その国(州)ごとの特色って、学校生活に色濃く出てるって言う風に考えられないかな。さらにクリークの厄介なところは、自然発生ではなく、担任や校長、教頭が取り仕切っている場合が多く、柔軟さに欠けること*5。その町で生まれた人間が教師になる町ぐるみの伝統が、硬質化する集団形成の礎になっている、とは言えやしないか。転じて、徹底されたゾーニング圏から外に出る事が出来なくなるんじゃないか。心理的抑制が起こるんじゃないか。結果的に自分の手で世界を縮めようとしているのは不思議です。おら東京さ行くだ。


じゃー存在が認識されない世界なら、いじめがないのかというと、全く逆で自分の知らない人間に対するいじめの凄惨さは、より過激になっているのが実情。というか人間だと思われていないから、虫を殺すような感覚で暴力が振るわれる。しかも、暴力を振るう側は、わけわかんないやつだから、いつかナイフで襲うかも、銃乱射するかもっていう恐怖心が根っこにあって、罪悪感を感じるどころか、被害者だとか言ってたりする。バカな話だけど。これは日本だってどーのこーのって話じゃなくて、ゾーニングによって人間を区別する目は消えない。いじめはなくならないって話。むしろ、理解できない相手への暴力は増すんじゃないかって推測した。


逆に、ゾーニングのよい面として、映画を含めた、過激な発言、過激な表現活動、そういったものを行う自由は、限りなく自由に設定されてる。多チャンネルとか、そういった土壌ならではの社会って感じだし。差別系のコメディアンとか、ジャッカルみたいな過激派バカとか、宗教家をバカにするラッパーだったり。または、先天的な病気や欠損、売春婦的アプローチを、逆に役者やアーティストが進んで武器にしてる社会って日本にいたら信じられない。で、それはゾーニングされてるからこそ*6。ストをしたり、決起集会をしたりすることも勿論自由。法律を犯さなきゃ、というかゾーニング化された他人に迷惑がかからなければ、やりたい事は大いに自由に勝手に死ぬまでやればいいじゃない。でも、そういった活動で届けたい相手に作品が届かないのもゾーニング。存在しないものからの、存在しない作品が届くことなど、存在しないので、個人個人が、自分のテリトリーで勝手気ままに吹き上がるのみで、差別に順ずる問題が何100年経とうが解決しないのは、いい教訓かも。これって某はてなとか某2chみたいだよね。ブログ論壇とかいって。


海外のオタクにとって、何故日本のオタク文化が尊敬のようなまなざしで眺められるのかといえば、日本の訳知り文化人が言いがちな、コンテンツ(ソフト)の第一次供給限であることではなく、海外のおたくが口をそろえて言う、オタク文化への寛容さだ。そしてそのことで、日本がコンテンツ(ソフト)の第一次供給源として優秀だって順番。日本のオタク文化が海外への輸出文化として、優れていると思われているのはこの部分。日本の制作環境じゃ、今後コンテンツがいつまで優秀でいられるか分かったもんじゃないって話は、この視点で言うと、逆におたく文化に寛容な社会である事の価値を評価すれば、まだまだ裾野はあるのかも知んないとか言って、ちょっと元気が出るよね。ただ、アニメータの給料とかは、もうちょいなんとかして欲しいし、技術者の流出っていう問題はまだ残るよね。


んで、こういったことから、徹底されたゾーニングと、(特にオタクのような偏見を持たれやすい)ジャンルへの寛容さは、同時に行うことが出来ないって事を学びたい。エロゲのような趣味嗜好のたぐいを、おたくのメンタリティと切り離して考えるのは、考えてもらうのは非常に困難で、ゾーニングの結果もたらされる世界像が、おたくにとって今より息苦しい世界になるのは想像に容易く。おたく(エロゲ好きとか)が、ゾーニングによってもたらされるのは、自由な表現と、不条理な差別の助長の両方になり、それを受け入れる度胸を浸透させるには、とてもじゃないけどまだまだ時間がかかると考える。しかも、ネガティブに想像すれば、微調整のために制度をいじろうとした場合、明らかにおかしいことだったとしても、一度上げた手続きのハードルは極端に上がり、結果、手のつけられない改悪になってしまうケースだって考えられる。だから少し変えるだけだとしても、物凄く慎重に行われなくちゃいけない。今以上のゾーニングには、大小いくつかの問題があって、ゾーニング化を進めると同時に、偏見や差別がそのつど広がるのって出来れば避けたい問題でしょ。


だからそういった前提の下で、互いの折衷案として歩み寄らせて、規制の程度をコントロールするみたいなのは無いのかな。結果責任政治責任って言われているように、政治は結果が全てで、本格的に文化の規制を阻止する為には、政治的アプローチが必然なわけでしょ。わかんないけど、兎に角規制されなきゃそれでOK。っていう感じの人だって、結果を求めてるのに代わりは無いんだし。"日本の国益に関わる輸出文化の長期的な搾取に繋がる"みたいな、てきとーな事言って、圧力に出来ないのかな。ただ自分のずりネタが取られたくなくて規制止めろって騒いでる奴らは、結果じゃなくて、過程にある自意識(美意識)にこだわりすぎで、外交のイニシアティヴを取る為に、結果ありきで行動するのって超大前提じゃん。無駄な自分語りと性的思考のカミングアウトって意味無さすぎだから、実際に活動している、ある程度の立場の人間に、こういった働きかけをお願いするとかの方が、まだなんかやった感あるっしょ。


こういった考え方には、すでに自分がゾーニングに不愉快な思いをしていることからきてるのかもしんない。日本にいても十分に実感できる程、一部のインターネットではすでにゾーニングを態度で実現している。もしかすると、そういったタイプの人間にとって、ゾーニングは望まれてるんじゃないか。昔で言えば、あゆとか、レンジとか、DQNとか、嫌韓流とか。例えばギャルとかちゃらい奴が何となく嫌いなやつとか、処女以外全員中古!ビッチ!!みたいなの見ると、絶望的な気分になるんだよ。う〜ん『嫌なら見るな』ってだけで、なんでそこまで図に乗れるんだろ。それそんな万能じゃないって。ネットは俺らの島って感じ?
オタクが何でか手軽に帰属できる思想や人格になっちゃったから。仲間がいるって素晴らしいねw暴走族に一人じゃ何にも出来ないとかいうなよwんで、普段無自覚にDISってるマスゴミがいう市場経済効果を自動的に信じちゃったりして。それでオタクは安易な情報に踊らされない情報強者ってバカなんだろか。エロゲ規制でよく分かった。オタクがおとなしくて人を傷つけない人畜無害なジャンルって本気で信じてるんだろう。そもそも思想や人格や生活のコアにあるのがオナニーってどうなの。
例えばDQNって言葉がなくなるか、現実の世界でDQNをDISってんのが当たり前なるか。そういう落差が恥ずかしいってなるのか。DQNとかビッチって言葉で人を差別する世界が、擬似的なゾーニングで目に見えてるのに、そんな醜い世界を肯定する事は出来ないわ俺。


ここから↑以上に過度な妄想。もしくはポエムなんだけど。地方分権が議論の俎上に上がっているので、地方自治体の位置づけが変わることもあるかもしれませんが、日本のサイズじゃそもそもゾーニング効果も薄く、欧米に比べ国土の問題で、ネットの場へのプライオリティが高い気がします*7。そして、ネットを縄張りに出来ると考えているようなイメージがあって、勿論エロゲにPCが必須な為かもしれませんが、無くなるわけではないエロゲの表現規制に、人生が瓦解するかのようなショックをネットで訴える割に、実際の社会に訴えるわけではない人の心に、軽蔑と心配を感じると共に、ネットが実際、社会の代替を超えた人生での場足りえるのかという事を考えていて、その場合、仮想敵は現実社会から来るイメージ的です。


俺の欧米におけるゾーニングにすら包摂され得なかった人たちのイメージとして、ホワイトトラッシュやホモセクシュアルがあります。そのせいか、欧米でのネットは、現実の場を補完的に補う場所というイメージがあり。彼らにとっての人生の瓦解は、明日のパンや目の前のアイツとの愛であり、この話により近いnerdgeekにとっても、実際の社会的運動に当るのではないかと思え(http://d.hatena.ne.jp/tenkyoin/20090524)、じゃー何故日本で実際の社会に訴えず、ネットで管を巻く事が解になるのか。そこにおいて政治と日常の乖離は、Why/Becauseの関係になる。


少し話は飛び、・本当に瓦解するとしたら、どう受け止める?・つか、どうにかして受け止めなきゃいけないの?という想像に勝手ながらいたるのですが。俺の根底には秋葉原の事件があるのかもしれません。ネットなんて脆弱な人生は、すぐ瓦解する。その時に現実*8をクラッシュするのは、仮想敵としての現実社会があるから。ならば目の前のネットを強靭にするのが、心臓マッサージにあたる。そして、極々個人的な強靭なネットのイメージは、ゾーニングではなく寛容さだと思うのですよ。

*1:まー日本とイメージの乖離はあるんだろうけど

*2:それはお話のお話だよって浮世離れしすぎるとしらけんじゃん

*3:過度に細分化されたジャンルで行われる暗黙のグループみたいなかんじ。フリークス学園とかさあんじゃん、打ち切りだったけど

*4:ジャンル間で恋愛が起きないってのは、結構キツイと思うな。それこそえろげの進化の方向性にさえ影響を与えると思う

*5:んでまたその聖職者が子供レイプしてたりするからさ。抑制と性欲の因果関係って当然意識すべきだよね

*6:でもそんな土地日本にねーよ→インターネットを土地と見立てる

*7:そもそも検索ベースのネットに、場もクソもないかと思われますが

*8:例えば秋葉原の街