「殺すな」
「何故秋葉原か?」
という事に関心が集まるのは何故か。
そこに因果関係を見出すことは可能か
「何故秋葉原か?」が自動的に喚起されているのならば
それこそが、「だから秋葉原なんだ」に該当するのではないか。*1
他の地域だった場合、何故そこなのか?は問われるのだろうか。
問われた場合、地域性の違いなのか思想性の違いなのか
日常に舞込んだテロという印象には違和感があり
テロというよりもジェノサイドのように感じた
テロらしい政治的アティテュードが存在するならば
「だから秋葉原なんだ」
の部分に該当する部分であって
現段階では、
政治的というよりも社会的なのではないか。
そこには、脱社会化的な目線を
代入することを望んでいるように感じる。
それでもまだ、
より秋葉原という土地に価値観を求めたいのならば
オウムなのか宮崎勤なのか、という部分ではないだろうか
犯人を捜したいわけではないが
そこに到った問題は必然*2であって
キチガイで済ませていいのか。
ゲーム脳で済ませる事との差異は?
必要以上にマスの目に敏感に過ぎる
宮崎勤の時と同じなのでは。
駄目というのは簡単だけども
国家が暴力を取り上げている訳だから
誰が言ってよくて、誰が言っちゃ駄目
という問題は語れる問題なのだろうか。
その時、無言の圧力は、果たして
仮託された暴力と呼べはしないか。
無言の圧力と「だから秋葉原なんだ」は
どこで交わるのか。どこかで交わるのか。
これらの因果関係がもし証明できるのなら
ある種のメンタリティの共有は既になされていて
そこに圧力が加わり、
ある種の祝祭感を生んでいるのならば
今後このような事が起こらない為に
罪悪感を感じた全ての人の隣に
救済措置を設けることが可能なのか
このようなメンタリティの共有や暴力の仮託といった問題は
日本特有の死刑論における
正当な理由であれば殺してしかるべき
という言い分に現れているのかもしれない。
それはお侍の時代の話では無罪な訳だけど
国家への信頼や懐疑や疑念も含め
明治維新以前への欲望が見て取れる
そんなに人を裁きたいのだろうか?
彼なりの正当な理由で
人を殺していたのだとしたら
たまったもんじゃない。
その彼を殺せと言う時に
彼と同じメンタリティを共有してはいないか。
というように、そういった思想を補強していると
捉える見方もまた可能かもしれない
(ポエム)
そういえば
殺せと言うのは、誰に言っているのだろうか?
国家だろうね。
殺すではないんだ。
自分の手は汚さないと言うことだ。
殺してほしいんだ。誰かに。
だから彼は無言の殺せと言う言葉を
請け負ったのかもしれない。
殺せといった奴を
殺したかったのかもしれない。
明治維新のような変革が望まれているのだろうか。
制度に対する不満が
限界まで来ている可能性があるのなら
本当に変えるべきなのだろうか。
しかしこのメンタリティを支える制度が
共産主義国家化なような気がして
気が気じゃない。