こどものじかん

これは…敷居が高いです…


子供を子ども扱いする事とか
知ってる事と、分かってる事が違うとはいえ
どの程度の現状認識が子供にあるのかとか
なにより、その根本に存在する
子供が性的商品として売買が成立していて
子供がそのことに自覚的に成らざる終えなくて
自覚=対人間として対等な関係になり
(市場的には有利)
そこを教師が倫理的に想像する事すら抑制してしまう時に
生徒の感情を過剰に相対化する為に、
生徒を必要以上に咎めると、それはいじめになり。
その瞬間、いじめと性的価値は等価になってしまう。
勿論その時には、生徒同士のいじめと先生からのいじめも
価値観としては等価と見なされる。
そして性的商品として売り手市場の自分が
それと同様のいじめを強いた先生よりも
優位に立つ必然性を第一の問題としていると思われる。
先生にはまず、小学生が性的商品として流通していて、
その事に子供は自覚的である事を認識した上で
関係性を再構築するという仕事と、
親や学校の脱構築を同時に強いられてしまう。
果たしてそれが、労働条件に見合っているのか
そんな事を関係性の時点で劣勢に立たれた人間に可能なのだろうか。
また恋愛と性愛の違いも問題にしていると思うのですが
恋愛にはおく手な主人公を先生に据える事により、
一対一のコミュニケーションである恋愛と
一対大勢のコミュニケーションである教職を
主人公が横断しかけてしまうという危うさで
性愛と言う一対不特定多数の情報の部分を際立たせて描いていて
例えば、このアニメを規制する事、
それ自体がこの構造に加担している事にはならないか?
などといった、問題定義があるのかもしれないですけれど、
ロリでエロなアニメを見ているっていう
違和感が…
何でコレ見てるの?って
いつも横から聞かれてる感じが…