プロレス的格闘議白書-2006-

前にも書いたけれど、世界最強を決めるのはルールだ。
K-1の判定、ドクターストップ、レフェリーストップは、
どうしても視聴者の目線とずれている。
逃れられない格闘技の持つ業とは、
現実的と非現実的の世界の鬩ぎ合いなのだから
その割合がルールとして、
そのイベント団体のカラーにまでなる。
日本の視聴者の目線をグイグイ引っ張っていたのは
PRIDEだったはずで。
しかし、それにK-1までもが引っ張られると言うのは
前述した通りイベント団体が、
一方のイベント団体に吸収されているも同然だ。
だからK-1が、レフェリングの目線を引き上げる訳にはいかなかった。
しかし、PRIDEがTVから退いたとはいえ
一度上げられた目線を(正直、上がりすぎていたと思う)
視聴者は、まだまだ下げてはくれない。
このまま、新しい格闘技ファンが増えれば増えるほど
昔はよかった。的言説が蔓延るのは目に見えている
それは、格闘技自体のイベント規模を矮小化させる事に他ならない。
そうなったら、いつK-1もTVに見切られる可能性まで頭を擡げる。
格闘技イベント会社からしたら、御互いの為にならないかもしれない。
水面では敵対し合い、水面下では
お互いジャンル格闘技の為に手を結ぶ事が望ましい筈だ。
いや、そうだったのかもしれない。
しかし、その真意は問わない。
想像をさせる事で、物語は加速するものだ。
それを現実のモノに引き寄せる為のファクターが、桜庭の存在だ。
これは妄想だけれども、
PRIDEは桜庭に、何かプロレス的なコアを持たせ
K-1に非難させてもらったんじゃないだろうか。
それが、今話しているレフェリングの問題だ。
PRIDEは今後、格闘技団体として純化していくだろう。
そして、K-1
よりプロレス的なストーリーに的をしぼるだろう。
(結果的には、表面上逆に見えてくるでしょうが)
そのお互いの利害を一致させる存在として
桜庭の行動はピタッとはまる。
一番分かりやすい例としてスミルノヴァス戦での桜庭の試合。
あれによって、今までK-1のレフェリングに
生ぬるさを訴えていた観客は、
全く逆の言葉で、K-1のレフェリングを非難するしかない。
(マニアに有無を言わせない、前田日明による下準備も出来ていた)
それは逆説的に、K-1のレフェリングを
生ぬるいと言う事を口ごもらせるには、充分の説得力があった。
もう観客は今後目線を下げざる終えない。
そして、桜庭的価値観を捨てたPRIDEは、
もう止まる事は出来ないのではないだろうか。危険だ。
より競技化するか、より生臭くなるかのどちらかは分からないが。
そして桜庭和志は、このような妄想を過去何度も具現化してきた男だ。
そういった側面において、
桜庭はプロレスラーとしての魅力を遺憾なく発揮する。