笑い声の仕業では無かった

昨日見た落語が、物凄い面白かった。
お笑い番組の出来る出来ない。良い悪い。
って、考えているよりも、全然先に行っていて、
もしかして、いつでも何でも出来るんじゃないか。
TVの時点で、選択されているはずなのに。
凄い、凄い。ってずっと思ってた。
徹底して普通に面白い。


今まで見た中では、
群を抜いて構成が洗練されていて。
現在の落語の状況や、擽りでの媚や、
年齢、日本に生まれているということ、
そのどれにも、極端な姿勢が無く
かといってエッジが無いわけでは無く、
老いて尚、尖っていた。
というか、老いてこそ、尖るようにさえ感じる。
まさに落語が立っていたのだ。
全てであり、人を崩さず。
人が頑丈だからこそ、全て足りえる。
と言う感じだった。


それと観客の笑い声が、下品じゃなくて
もうそこに居る臨場感と言うか、
その場の空気を落語家さんが完璧に掴んでいて、
その上で、コントロールしていて
それを分かりつつも、
コントロールされる事が物凄く心地良いという。


観客やスタッフの笑い声が
笑いの起伏を再確認する為に機能していて。
人の顔色を伺うような、
自分以外の誰かが笑っている安心感を与え。
(逆にこれで笑っている奴とは一緒にされたくない等)
視聴者から、能動性を奪っていく。
という話を考えていた矢先だったので
物凄く悩んでしまった。
とは言え、この落語を見ている時間は本当に至福でした。
頭を動かさなくても、
勝手にどんどん動くように促してくれるのだから
マグロの俺が物凄いテクで往かされる様な感じか。
違うか。