オウム以後のポストモダンは失敗だった
僕が、ずっと思っていていながら
今だに上手く言語化できない事があって。
それは、まだオウム事件の事すら、
言語化できていないまま
どんどん、借金が嵩んでいる感覚なんだけど。
分かる人達が、自分達だけで理解していても
何にも社会が機能していないも同然じゃない?
オウムに関しては『おたく』だよね。
でも、おたく言語、おたくの肌感覚
ってのは、全然流通していない。
けど、資本にだけは流通しているじゃない(?)。
前にね、サークルクラッシャーの話をした時に
徳山高専の女子学生殺しの被害者を
引き合いに出そうとして、止めたの。
そりゃ、書けないよ。
何で止めたんだろうって。
そりゃ不謹慎だからで。
罵倒される予想もあったしね。
でもね、どうして彼は彼女を殺したのか。
どうして自殺したのか。
社会は誰も彼を救済してくれないから。
と勘違いしたのだとしたら、可哀相だなぁ。
って同情くらいはしますし。
多分分からない人は、予想すら出来ないでしょ。
何で殺したか。何で自殺したか。
でもそれを、分からない人に言語化するときに
否応なしに、軋轢が起きるには決まっているんだけど
ロシアの言論弾圧を引き合いに出すまでも無く
ここでは、国民単位の自己責任で
言語化する事に二の足を踏んでしまうのよ。
いや、俺がか。
そんな重層的な非決定を強いられている世界にある、
現実っていうか、リアリティの立ち居地ってのは。
もう一つ別の"虚構"からの覗き穴。
一昔前によく言われた、メタリアル。
ポストモダン後の世界を、表した言葉だよね。
現実と虚構を
俯瞰で眺める視線に現実があったとして。
その横にさらに虚構が存在している。
でもその虚構からの視線は、
メタ思考とか、そういった椅子取りゲームじゃなくて、
借金からの逃げみたいな、最悪な形だったんだと思うのよ。
だから、メタって言い回しは、とても恣意的だ。
今、僕(たち)が持つリアリティってのは、
物凄く悪い形で、存在していながら
理論武装でどんどん逃げ回っているような
そんな肌感覚がある。
オウムの、いや麻原の言語感覚って
保守論壇からの言葉を拝借して、日本を世直しする。
ってモチベーションがあったと思うんだよ。
『亡国』『平和ボケ』のような
一見、小林よしのり?系の言葉は、
マス・メディア上でも、ネットの一部でも
なんの軋轢も無いまま、同列に存在する。
それって何処からどう見ても、2CH語りで行われる、
プチナショナリズム芸と、同じメンタリティだし。
2chに限らず、様々な小さな社会でだけ通用する
他分野用語をミクスチャーする言語感覚である。
そのような、手の届くアカデミズムで回復したかったのは、
日本のモラルなんかじゃなくて、自分自身の居場所だ。
と言う意味でも、麻原と全く重なって見える。
しかしそういった(今書いているような)シニシズムを
纏えばまとうほど、弱体化もしていく。
自己愛性のナショナリズムが、何を齎したかは、
『おたく』こそが、
学ばなくてはいけなかったのではないだろうか。
勿論、自分もそういった世界の言語感覚に、吝かではない。
麻原とも、ぷちナショナリストとも
アルファブロガーとも、重なり合っているからこそ
自分にとっても、とても厄介なのだ。
ただね、オウムが言っているから
どんな内容だろうが、間違っている。
として、耳を塞いだ結果が、
分からないモノは分からない。
理解できないモノは理解できない。
犯罪者と自分に何の整合性も無い。
別の人間だ。
と言って目を逸らす癖をつくり、
いつまで経っても、分からない犯罪は
分からないままじゃ、減る筈が無い。
多分警察は、今日的犯罪のメンタリティを
積極的に理解できないまま、捜査を続けているよ。
それは、『おたく』と言う言葉の侮蔑性を嫌い
自分は宮崎勤と違う『オタクだ』
と叫んだ時代から、何の進歩もしていない事を
とても単純に物語っているように思える。
そのようなポストモダン下を選択してしまった事は
個人的に、過ちだったと感じている。
例えば『フェミニスト』の言う『おたく』は
ポストモダン下での現状としては
とてもまっとうな選択に思える。
しかし、それは『おたく』の失敗である以上
いつまでも、お互いの会話はクロスしない。
自分が、ポストモダンを生きている実感なんて
ありはしないのだから。
しかし『おたく』が選択するべき、
逃げてはいけない未来というのは。
逃げを選択しないのなら、戦え。
という、ゲーム脳でも勿論ありませんw
そのゲーム脳に添って言うのなら
女神転生シリーズでは、
敵と会話し、仲魔になります。
その上で、国籍も肌の色も宗教も違う仲魔と
共に冒険する訳ですよね。
う〜ん、リベラル。
ってこうやって、おたく側の言葉に頼るから
軋轢さえ生まない、乖離を生むんだよな。
理解できない側の言葉で話してあげないといけないのに。
それに、こう書くと
ただ、お前が好きなだけだったり。
その物の評価と脱却できなくなるから
本当は、こういうおたく(サブカル)で例える事って
ポストモダン的な、過ちのうちの一つなんだよ。
こうやって、どうしようもなくフラフラしている時に、
自分が一番関心を覚えるのは
オウム及び、地下鉄サリン事件についての
歴史教科書の記述の方向性だ。
一度、社会科の教科書を見てみたい。
理解されていないのだから、明文化されようも無い。
どうやって歴史化しているのか、
とても興味と、恐怖がある。
その答えを導いてくれるのは
下の世代の子供たちなのだ。
とか、また借金を下の世代に背負わせるつもりかよ。
団塊の世代にされて、嫌だった事は
下の世代にもしちゃダメだろ。
このような態度で作られる歴史教科書とは
トンデモ本以上の何かには、とてもなり得ない。
最悪だ。
子供達!君達の大人は、
さらに上の大人の借金に手一杯で
君達の事にまで頭が回って無いぞ。
自分で、教養を学ば無いとサヴァイヴ出来ないぞ。
すげーバカと、すげー頭でっかちの二極化に
負けちゃダメだぞ。
って俺に言われたくないよな。
そういった事の例えとして
地下鉄サリン後、日本でもよく聞かれる
『ネットを見れば爆弾の作り方が』
といった、ネットの暗部を手探りで
触ろうとするこの例え。
しかしそれは、ネットでもおたくでも無いはずだ。
ネットを持っていても、
おたくでも、そんな事に興味を覚えない人の方が多い。
しかし、この例えを引用する度、興味を覚える。
と、自分を使ってしまっているが
出来る事ならば、これは最初で最後にしたい。
申し訳ない。
やっぱ上手く書けない。
少しずつ修正しながら、
少しずつ文章が増えるのは、仕様です。
こんな言い訳言ってたって
何の解決にもならないのにね。