僕はのび太だ!

『実際には』のび太はカッコいい(?)

ドラえもんに出てくるキャラクターは、
その卓越したキャラクター造形により
何かと、例えにだされる事があります。
例えば"アメリカはジャイアンだ"と。
そこでドラえもんにおける主人公、野比のび太とは、
Wikipediaによると

成績不振、運動神経ゼロ、怠け者でスケベという「ダメ人間」類型で有名であるが、
実際には朗らかで友情に厚く、優しい性格であり、
危機に強い精神力など優秀な資質の持ち主でもある。
しかし生来の怠け者気質の為、
のんびり昼寝を決め込んではママやドラえもんにどやされる(略)
Wikipedia-野比のび太

などと称されるように、日陰者。
いじめられっ子を体現しているかのように見える。
しかし、こののび太というキャラクターが、
例えに出される時、それは被害者としてのネガティヴな
ルサンチマンの発露に、使われてしまう事も多い。
しかものび太は、
>実際には朗らかで友情に厚く、優しい性格であり、
>危機に強い精神力など優秀な資質の持ち主でもある。
この『実際には』というのが曲者で。
漫画やアニメである以上、『実際には』なのだ。
当たり前。そうですよね。

いじめっ子のび太、いじめられっ子のび太

『実際には』とは、ファーストインプレッションが覆された時に
逆説的に用いられるもので、決して最終的な結論ではありません。
が、のび太の説明でも用いられているように、
まるで結論のような響きを持っています。
例えば、善行だけが取り柄のおじさんが
たった一度、女子高生の下着を盗んでしまったら、それは
『実際には』全て下心があったからこその善行だと言われ。
 それが、数十年に及ぶ善行だとしても。
また、暴走行為と暴力沙汰が日常茶飯事のヤンキーが
たった一度、おばあさんを助けている所を見られたら
『実際には』心の優しい子なんだ。と、見られるでしょう。
 それが、数十年に亘る悪行だとしても。


人は過ちを犯してしまうものです。
このおじさんも、ヤンキーも、同等に罪を償い
信頼を回復する、チャンスがあって当然だと思いますが。
人の性格と言うものは、環境や状況、周りの人間によって
常に流動的なものだと思うので、
たった一言で、流動的かつ未来のある存在に、
ジャッジを下してしまう『実際には』という、
一つだけ裏を真実だと思い込んでしまう心理は、
安易な方法で、人格を否定する行為だと思います。
そこにおいては、
いじめっ子が、いじめられっ子をいじめる論理と一緒です。
『実際には』民主主義下でジャッジを下せるのは、
資格を持った第三者だけなのです。

本当ののび太

のび太と言う例えを、被害者としてのネガティヴな
ルサンチマンの発露に使ってしまう原因には
この『実際には』いい奴。
というのが、ポイントになっている。
とは考えられないでしょうか。
『やれば出来る』を一番信じたいのは、
親でもなんでもなく自分自身なのではないか。
という憶測なのですが。
のび太においてだけは『実際には』いい奴。
が娯楽作品として、成立している所が厄介なのです。
それは、映画版とTV版という、別枠扱いの形式をとっている為
娯楽としてのドラえもんにとっては、
一つのドラえもんと言う世界なのですが。
ドラえもんを例え、語る現実の私達にとっては、
二つの世界を行き来している事になるからです。
つまり私達が、二つのドラえもんを混同させる事は、
ダブルスタンダードだとも言えるのです。

独裁スイッチ

しかし、私達の世界は、多様な文化の集まりで
社会を形成しているとはいえ、
個人にとっては、掛け替えの無い一つの世界しか
その視界には写らないはずです。
その上で、映画版とTV版のドラえもんを混同し、
のび太を例えに『実際には』、
『やる時はやる』『やれば出来る』『その時が来たらやる』
という返事をした所で、存在しないジャッジメントデイに対しての
言葉になってしまうのです(消極的な自殺願望)。
 映画版のような、危機的状況というのは
 リセット願望なのかもしれません。
のび太は毎年、一年に一度頑張ります。
あなたは一年に一度、世界を救っていますか?
現実に映画版の世界はやって来ません。
でも、のび太は救っていますよ。
と言う事は、
あなたは(安易な方法で人格を否定する)第三者から見て
ただの「ダメ人間」なのです。

のび太じゃない「ダメ人間」の僕

僕はのび太。僕は非モテ。僕は文系少女。
僕はメガネ男子。僕は自爆テロ。僕はダメ人間。
違います。
簡単に、自分で自分を、値踏みしてんじゃねぇよ。
>成績不振、運動神経ゼロ、怠け者でスケベ
な奴を受け入れるキャパシティがこの世に無いのなら
最初から、生まないでくれよ。
じゃ、なんで生んだか。
俺は私は、世界がどれだけお前を憎んでも
愛する自信が在ったから。
平和だね、日本は。よかったね日本人で。


映画版ドラえもんの世界がやってこないから、
やらなきゃいけない時もやってこなくて、
その上、やっておいた方が良い事を
やり過ごしているうちは、ダメ人間って言われます。
だからって、自分まで、
『俺はダメだ』何て思う事はねーだろ。
映画版ドラえもんの世界が、やってこなくたって
自分を愛してくれる人が、二人も居れば
充分、幸せな生活が送れる。
「ダメ人間」から脱却する必要なんてナッシング!
身の程を知って、弁えれば
ダメなまま、幸せにだってなれる。
多分。
俺は、そういう経験無いけど。
家族に愛されないのは、相当キツイと思うよ。


うをォ!何とかセミナーみてーだ!!