倫理の輪郭は武士道に宿る

過去web倫理とニューウィーヴの話を、度々して来ましたが、今日はその疑問点と、その他の話も交えて、中身の固まってない話をへむへむ呟こうかな、と思います。
(http://d.hatena.ne.jp/ATOM-AGE/20060331/p3)
(http://d.hatena.ne.jp/ATOM-AGE/20060403)
まず、疑問に思っている事なんですが。ネット上、主にBLOG間で行われる「揉め事」とは、そもそも何なのか。目的は?の辺りが、双方にとって明確にされていない(またそれは、日々更新され行くBLOGを書き綴る管理人の、運営意義にも関わってくると思います)。だからこそ、議論なのか討論なのかすら間違えているまま、話が進行していき、お互いに体力を削る一方で言葉がすれ違ったままエスカレートしている。
ここで考えられる事は、議論をしているつもりで討論をしているせいで、お互いが後味が悪くなっているのなら、まず基本的な事として頭に入れておかなくてはならないのは、そもそも討論とは、勝敗と強弱と優劣と無関係だと言う事です(討論が齎す唯一の癒しは自己啓発なので、相手は人格を保証しない。それを経済や政治に回す力をカルトとか新興宗教といいます)。結果を求める二元論は、経済の上でしかそもそも成立しません(政治もか?)。討論から勝敗と強弱と優劣とを求めた時点で、ほぼ体力の削り合いになるでしょう。自分は議論のつもりだと言う事は、この後に問題視されるべき事柄だと思われます。
そして、BLOGという形式上いくら議論の様相を呈していても、それは討論でしか有り得ないと、自分は考えます。一時期、更新とその期間が問題視されたのも、その為でしょう。当事者の一人は「プロレスのアングルに付き合いたくない」と発言していましたが、討論である以上それはプロレスなのです。その一点において、一生話は噛み合わないでしょう。それは、経済ではないのですから。また相手方が「プロレスのアングルが飯の種」の人だとするなら、相手が行っている行為は経済です。彼はプロレスで相手は経済では討論も議論も成立しません、行為が似ていても結果が全く違うからです。また音楽が飯の種の人と揉めた場合もやはり、プロレスVS経済だった以上、討論も議論も成立できなかったのです。あるいは、それが政治だったとしても。双方はこの事を知覚していたのでしょうか。議論ではなく、討論をしている自覚は?そして討論は、勝敗と強弱と優劣と無関係だと言う事はご存知で?そこが疑問です。
ここで話を一旦流します
堀江貴文(被告?)とは、経済をプロレスされる事に最期まで徹底して拒んだ著名人として記憶しておくといいでしょう。そこに徹底した武士道精神を見ました。藤原正彦辺りが、プロパガンダとして、意識的・あるいは無意識的に使っている故意に歪曲された武士道とは全く異なった精神です。彼が元来日本人が持ち得た武士道精神を取り戻そうと口にするのなら、新渡戸稲造の武士道ではなく、五輪の書(付随して葉隠れ)を持ち出さなければいけない筈だ。ま、彼の言う元来の日本人という定義事体が非常に曖昧で、じゃあ、インドからの移民?とか言う話になるじゃん。とかは置いておいても、新渡戸が武士道を書いた時代は、階級社会を冠した暴力性と美意識の格差社会が元来の日本人だということは歴史が証明していて、一部の上流階級の美意識をもって元来の日本人とするのなら、流石アカデミックな教授、浮世離れしておりますな。数学科の歴史観とはこういったものなのだろうか。アメリカに捻じ込まれた戦後民主義思想後は、野蛮さ粗暴さを少しづつ切り落として、格差を縮小し誰もが日本人としての誇り*1を持ち美意識という言葉を口に出来るまでに復興したが、さぁ一体、どこをもって元来の日本人と、彼は言うのだろうか?
武士道の話の詳しくは、(http://d.hatena.ne.jp/ATOM-AGE/20060310)の三段落目辺りで書いています。また、この新渡戸稲造著:武士道はそもそも英文で書かれており、藤原正彦の言う国語の教育だとか、英語教育への警笛とバッティングする出自を有しており、この辺りを受け入れてから「国家の品格」とか読むと爆笑必須なので各自調べたし。新渡戸稲造藤原正彦のバックボーンも合わせてどうぞ。
話が変な方向に逸れてしまったが、堀江貴文が持っていたのは武士道精神だ、と言う話。そもそも武士道とは、勝つ為なら遠回りをしてでも準備をし、相手の中の自分と対峙させる様に仕向ける事で、自分は戦わずにして相手に勝つ。その為になら命をも落とす。醜態を曝してでも、負けを認めない覚悟。と言う、フェアプレーから最も遠い思想です。しかし、新渡戸稲造の武士道とは、新渡戸の愛したアメリカへの情景から、アメリカナイズされた(因みにヨーロッパに広く浸透している騎士道と武士道は負けを認めない、仕える身に忠実という点が酷似しており、それはモンティー・パイソンの人のコント「ホーリー・グレイヴ」から、かなり伝統的な事柄だと言え、これまたアメリカナイズされている事を笑うウィットだったわけだ。)民主主義社会における社会人としてのモラルと言った程度の代物だ。さぁ、そこで堀江貴文は「民主主義社会における社会人としてのモラル」と戦い、その武器は「醜態を曝してでも、負けを認めない覚悟」だった、と自分には見え。また、現在も黙秘する事で武士道精神を貫いている。この事から今、思うのは自殺するんじゃねえか?と言う事。だが、それはまた別のお話。
また彼は徹底して大きなHワード(Humanity.詳しくは、グレッグ・イーガン著:万物理論)を使わないヒューマニストという一面も彼の武士道精神を強く印象付けている。その反面、堀江貴文に対峙していった、大物・CEO達はどうだっただろうか。話の内容やビジネス強度ではなく、彼自身の品格や人格と言った大きなHワードで、人を人と扱わない人間達ばかりではなかったか。僕が見たのは、ヒューマニズムは民主主義に置いて是正されると言った、元来日本人が抱えていた屈託を未だに抱えているといった事実だ。
つまり、一つ目の話も二つ目の話も「近代VS反近代*2」の時代がまだ終わっておらず、また新たな局面を迎えるのではないか、といった感覚を持ち合わせている事に端を発している問題ではないだろうか。しかし、反近代は悟り系東洋思想(ノーサイドOR喧嘩両成敗)を宿しているがゆえ。近代がイライラし、勝敗や強弱や優劣を求めようとしても元来、ニューサイエンス系(ホットヨガLOHAS)仏教思想(タオイズム)から帰来している東洋思想は、そこに重きを置いていない(もし、勝負にするとしたならば商売だ)。それゆえ、反近代は近代のロングテールの端に反応せず、怒りを付するのは、自己中心的で攻撃的な「武士道」と言った概念に触れるが故であって、その上で(web上の)揉め事とは、近代の勝利を前程としている。しかし何故、近代が勝っているように見えないかと言うと。近代が反近代を殺すつもりでいても、反近代が死を求めない以上、醜い一人相撲を曝す事でしかないからだ。反近代の求める「死」とは、ナルシシズムである。美しい死を求め、自死をも厭わない覚悟を持った時に、唯一近代は反近代を死に至らしめる事が出来る。当事者を除いて揉め事に求められる、安心できるメンタリティーとは、そういったノーサイドのショウなのだ。反近代に死をイメージさせるには、マゾヒズムを操り美しい死を与える事。三島由紀夫など、その精神を受け継いだ「死」という勝利は今だに日本人を感動させる。こういった日本人の集合的無意識に訴えかける、エロティシズムは反近代を突破する唯一の可能性を秘めているだろう。またこの構図に必要な、反近代からのインパクトは、幾度と無く繰り返されているのだから、タイミングを推し量り、牙を研ぎ続ける事だ。その時面白い事とは、産まれるのだ。刮目するべき所は自ずと限られてくるだろう。耳かっぽじってYO聞いとけや!
なんか尻切れだけど、取り敢えず終わり。
へむへむ言うだけって言ったからいいよね。よく分かって無いし。
そういや、55年体制が二大政党制の危険さ(国民不在の政治)を物語っている、って話をどっかに入れようと思ってたのに忘れてた。まぁ、いいか。その時期が来たら、毒にも薬にもならない資料集めて、また嘯くさ。

*1:糞みたいな概念ですね

*2:科学VS擬似科学の話もしたいが長くなるので割愛