俯瞰で見た終焉と、お返事。
俺は、相対化が必要無いとも、そうすべきだとも思っていなくて。相対化とは、メタ・レヴェルで起きる、自然現象だと思っています(一日経つと恥ずかしくなる手紙)。それを言語化したり、自己確認する作業に置いて、可逆性を強いる行為だとも言えるでしょう。それゆえ、当事者レヴェルで言語化されていない自然現象に、他者が、可逆性を求める余り、軋轢(祭り・炎上)が生まれたのだと思います(おめー○○のつらさ分かってねー等)。
つまり、彼女に「釣られた」。彼女の文章の中で言及された当事者が可逆性を強いた上で、「ちゃんと、相対化しろよ」と言っているのではないでしょうか。可哀相な彼女の文章の中は、更に小さな、可哀相な被害者がいて、その存在に、意識的では無い、と、受け止められかねない文章だった。その部分に切れてる人、切れるのもアレだからいじる人、様々だった訳ですね。
そちらの仰るセンターの定義が分かりかねるのですが、核とか、軸って事で理解させていただくと、彼女は自身にセンターが存在し無いように見える(そこの正誤は関係ありません)文章を書いた事で、センターを誰もが置き換え可能だった訳ですね。そこに於いて、「彼女を弄ぶ俺にはセンターがある」事を逆説的に唱えたいのならば、触れた時点でアウトだろうなと思う訳です。で、実際に触れた人の中に、自尊心を持った人と持っていない人がいたでしょう。自尊心で彼女をいじっていた人に、彼女を咎める事は出来ないと思います。その上で“当事者になってみると、なかなか相対化出来ないものだ”は適用されるべきだと思います*1。そんなモンに利用されるのは、確かに可哀相です。
後半はちょっと、理解できなかったのですが、彼女がはてなブックマークを見たら凹むだろうな。死んじゃいたくなるかもな。と言う事でしょうか。そこまでを強いる程、悪意で作られた文章ではないと思うので可哀相っちゃぁ、可哀相ですが。それこそ彼女の文章の中に「オマエモナー」が入っているのではないでしょうかね。社会ってのは、そういう所でしょう(自分に跳ね返る、責任を取る=相対化)。
俺個人の見解としては、これは他人に相対化されないと(うっかりバカを産む程度に)厳しい文章だけど、叩くほどの悪意は感じられないので、ネタ消費辺りが妥当だな。と、思いました。その尻馬に乗って、ただ自尊心の為に彼女を叩いた人を、守るつもりはありません。が、そいつらを目算できなかった部分と、相応なネタ消費のバランスを著しく欠いていた。の、かもしれませんね。この経験から学ぶべきなのは。あまり、大袈裟に遊ぶのはマズかったと言う事でしょうか?
*1:自尊心と書きましたが、正確ではないかもしれません。「彼女を弄ぶ俺にはセンターがある」事を逆説的に唱えたい心の事を言いたいんですが