恐怖の種類

アバウト非モテ童貞

非モテ、童貞についてのBLOGに置いて
叫びや、呟き、恨み節を拝見させていただく時、
異性への恐怖を口にする人は少なくありません。
しかし、恐怖と言う言葉を正確に使われているかは、甚だ疑問です。
身の程を知る為に、正確な恐怖を表現する事は
コミュニケーションの問題や、相対的な自己評価、
画一的な発想力を鍛え直し、多面的な社会性を営む為に、
頭に入れておきたい事柄だと考えています*1

  • fear(心配、畏敬、知識的嫌悪)
  • terror(恐怖、肉体的嫌悪)
  • horror(突然、精神的嫌悪)
  • fright(戦慄、精神的嫌悪) 
  • dread(心配、不安、知識的嫌悪)

恐怖症、神経症、精神疾患では

等と分けられるそうです。


こうして見ると、分かると思いますが、
異性への恐怖とは、社会恐怖の中の対人恐怖症
英語で言うと、fearやdread等の知識的嫌悪が
それに該当するかと思われます。
それを更に、細かく分けると
赤面恐怖、表情恐怖、醜貌恐怖、視線恐怖、自己臭恐怖、
発声困難、発汗恐怖、醜形恐怖吃音恐怖
などに分けられるそうです。

いい訳

ここまで書いてなんですが、
絶対、恐怖を克服しなきゃダメなのか?
異性が、恐いしウザイ事は分かったんだから、
それを回避した方が建設的。
ワザワザ、恐怖のある方向に臨むなんてバカだ。
と、思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、
個人的には、恐怖を乗り越える必要は、無いと思っております。
完全に、恐怖や、痛みや、ストレスを取り除いたマウスが
短命である。又、自傷行為を繰り返す。
と、いった実験レポートを例に出すまでも無く
個体の持つ絶対感は、実存感を失います。
刺激を受けつけない個体は、
社会や世界と同一化してしまうと言う事です。
それは、境界幻覚障害(ボーダー)を併発する恐れもある為
自分の中から、苦手な物を全て克服する事は危険かと思われます。
しかし、それは逆説的に
恐怖を回避し続ける事の危険性でもあるわけです。
恐怖とは乗り越えたり、克服する物ではなく
共に歩き、楽しみながら、共存するものです。
逃げちゃダメだ!っつー感じっすよ。
そして、恐怖は馴れますので、恋愛だけに精を出すのも
映画ばっかり見てるのも、ゲームばっかりやってるのも良くは無く、
常に新しいジャンル、経験値の少ない物への挑戦を試みる事は、
必要不可欠です。法の範囲内で*2


親が死んだ後に、その事で凹んだり
孫の一つも見せてやれない事への、背徳感を感じてしまう位なら
産んでもらった感謝への責任の取り方として
恐怖を受け入れ、育んだ方が、いくらかマシです。
童貞である事に慣れて、気持も楽になり
過去感じていた筈のストレスを感じなくなったら、危ないっすよ*3
結婚しなくても、モテ無くても、童貞でも良いけど
開き直ると体に悪いですよ。

知識的嫌悪に至る、社会恐怖とは

話がエライそれましたが、話を戻します。
社会恐怖(対人恐怖)を引き起こす原因が、知識的嫌悪ならば。
その知識的嫌悪とは何でしょう。


知識的嫌悪とは、未知の存在にたいする恐怖。
精神的嫌悪との違いは、未知の何かの存在感である。
影から何かが覗いている恐怖とは、精神的嫌悪なのだが、
それが、犯罪者なら肉体的嫌悪であるし、幽霊ならば精神的嫌悪な訳だ。
しかし、現在幽霊の存在は知覚されていないが
知覚され、誰もが見れる場合は、肉体的嫌悪になり。
幽霊も犯罪者も知ってはいるが、具体性を帯びた個でない為に
それは知識的嫌悪と呼ばれる。*4
つまりこの場合、男性、女性という異性を知覚はしているが
具体性を帯びていない為に引き起こされる、恐怖なわけだ。
父親・母親だけでなく、先生、クラスメイトを通して知覚をしていても
好きな異性、意識した個人となると、嫌悪を覚えるという事です。
このことから、好きな異性、意識した個人の存在が
社会恐怖を引き起こし、人全般に嫌悪してしまうのです*5

あるレポート

デビッド・レイノルズは「日本で生活を営む為には、相手が希望を表明した時、些細な事柄でも見逃さないよう心掛け、また、自身の希望の表明の時に、十分気をつけなければならない。そして、怒りや敵意を含んだ言葉や、性的な表現などは厳しく配慮され、押さえられる」という文化は、日本特有の人間関係で、対人恐怖が起きやすいと述べている。それを踏まえた上で、レイノルズは日本人の性格の特徴として「社会的敏感性」をあげている。
基礎演習レポート−対人恐怖−

自分はこれを読んで、疑問に思いました。
マスコミ主導の恋愛至上主義とは、アメリカから輸入されてきた
スリーエス政策の賜物だと思われるのですが、
社会恐怖(対人恐怖)が日本特有の関係性の上で起き易い
というのは、一体どう言う事なのだろうか。
恋愛至上主義を、抑圧と感じる人がいるならば
アメリカこそ、社会恐怖(対人恐怖)が最も、進んでいる筈でしょう*6


これは、想像でしかないのだが、
悪しきは、恋愛至上主義では無い。
が、しかし恋愛に恐怖を憶えるのは
日本特有のコミュニケーション作法が関係している。
といった、仮説は成り立たないだろうか。
それは、日本で好きな異性、意識した個人が出来るまでの経緯に
問題があるのかもしれない。

まとめと輪郭デッドエンド

これもあくまでも仮説だ。
非モテ・童貞の、ある種異形なまでのピュアさ
それは、恋愛の前に、個人の愛を育みすぎる所にあるのではないか。
また日本は、そういった相手に配慮する作法を
過剰なまでに発展させてきた、
故に、社会では自意識を表現しない事が
コミュニケーション能力が高いと賞賛されてきた。
(非モテ・童貞の真面目さは、ある一定の時期まで誰もが褒めるよゐこ)
だからこそ、DQNが大して好きではない相手にアプローチする事を
社会も非モテも、嫌がるのではないか。
しかし、大して好きではないが故に、知識的嫌悪を憶えず
当然、社会恐怖(対人恐怖)も引き起こされない。
それに対し、コミュニケーション能力を過剰に意識する余り
文句無しに好きになるまでに、アプローチをせず
愛だと認識するまでに育んでしまうと
知識的嫌悪を憶え、社会恐怖(対人恐怖)を引き起こす。
逆転の発想と言う奴を使わせてもらえば、
恋愛至上主義こそが、異性への恐怖を取り払うキーにはならないだろうか。
ちょっと、かっこいい・可愛いと思ったら、ダッシュ!
ちょっと、声を掛けてもらった、意識したらダッシュ!


しかしそうなると、ある時期までに異形なまでのピュアさを
手放しで褒める日本社会のコミュニケーション作法。
それに添って、今まで社会に正しくよゐこに育ってきた
正しい人間が、急に冷遇されだした部分的現実。
といった、日本社会のコミュニケーション・クオリティの
パラダイムシフトが非モテ・童貞を
弄んでいるとも、言えはしないだろうか。
又、ここ数年で、非モテ、萌え、オタク、秋葉原
といったキーワードが隆盛を極めている事とも符号しないか?
ウェブ進化論もいいけども、進化に置いていかれた人を
急に責めるというのも、ウェブ進化論の中に含まれてるんだぜ。
いつ頃から、文部省は教科書の価値観を変えてきたのか
いつ頃から、TVや映画の規制は厳しくなったのか
いつ頃から、不景気をいい訳に、逃げても良くなったのか
いつ頃から、コミュニケーション・クオリティのパラダイムシフトが始まったのか。
存在を知覚出来ない存在に、
知識的嫌悪を憶え、社会恐怖(対人恐怖)を引き起こしそうだ。

おまけ

また別の可能性として、
児童教育と、成人教育が一貫していなく
その齟齬に戸惑う人間を、
コミュニケーション能力の低い
無能な人間と称して*7嬲っているのかもしれないが
それはまた別のお話。

*1:恐怖を知覚する事は、ストレスを取り除く為には、必要不可欠だと思われます。完全にストレスを払拭してしまうのも、問題ですが。過度なストレスは体によくありません。と、これはいい訳ですかね

*2:だからといって、無理して克服しようとして過剰にストレスを感じるのなら、無理しないで欲しいのですが

*3:元々ストレスも何も感じず、人に言われるとその事に対してストレスを感じる程度なら、それでいいんですけど

*4:幽霊スポットや、近所で犯罪者が逃亡した場合を知覚したと捉える

*5:ちなみに、特定されていなくても、他人を正確に知覚出来るのは神のみです。いるなら

*6:又、恋愛至上主義が、国民性にもなっている、イタリアで対人恐怖が、全くポピュラーでは無い

*7:非モテ・童貞等との合わせ技を使い