「おたく」と「オタク」? -脱<非モテ論>論-

おたくとオタクを区別するのは、選択的自意識。

元来、アニメ・漫画が好きな人が
「おたく」と呼ばれる事と
人を避けて歩いていたら、そこにアニメや漫画があった人が
「おたく」と呼ばれる事は違う*1
だとしたら、後者が「おたく」ではなく「オタク」と
「おたくの歴史」上*2定義し。
今回は、
能動的「おたく*3」と
受動的「オタク*4」に分け、
考えていきたいと思います。
そこには暗くて深い溝がある。

おたくが叫んだ時<オタク>が生まれた。

元来「おたく」と言う言葉には、「オタク」でしかあり得ない事も
要素として、多分に含んでいたにもかかわらず、
人格を分けなければいけない程のストレスが
そこには存在したと、思われる。
そこで、イマジネーションで語らせていただくと
宮崎勤の事件が、おそらく凡その
分岐点では、なかっただろうか*5


その時まだ、一つだった<おたく>は
犯罪者と同一視される事に耐えられず
「そいつとは違う、俺は<オタク>だ!」
と叫んだのだ*6
その時、同時多発的に叫び*7
それと同時に<おたく>が抱える困難さや、
不可視出来ない事実*8
二つに分け、間引こうとしたのではなかったか。


確かに、
宮崎勤も、ドフトエフスキーも
太宰治も、タクシードライバーも<おたく>だったかもしれないが
相対化された*9それは
無根拠に自尊心が高くて、疑り深く嫉妬深い。
心に憎悪と復讐の念が渦巻いたメンタリティを宿しており*10
それから開き直るべきではない*11
そこが「オタク化」の限界だろう。*12

非モテ」「脱オタ」論を語るライセンス。

しかし、宮崎勤の事件から、20年弱経った今、
抱えるべき問題から逃げてしまった、
受動的な「オタク」達の問題は何も解決しなかった*13
今度は、「モテ」「脱オタ」といった文脈で
「オタク」達は、汚した手を凝視させられ*14
インターネットで、度々揶揄される。
自意識過剰で、疑心暗鬼
人を妬み、憎悪が消えないのはどっちだ?
非モテ」「脱オタ」に躍起になるのはどっちだ?
と。
しかし、「オタク」をそういった文脈で揶揄する事は
本当に可能なのだろうか?
それによって、自分は違うという、
優位性や特権性の保持が、
ホントにそこには存在しないのだろうか。
では、「オタク」を攻撃しているのは*15
「おたく」と「オタク」どっちなのだろうか。

あなたは、分類する側?される側?

それは「オタク」ではないだろうか。
何故なら、「そいつとは違う!」と
叫んでいるのは、「オタク」だからだ。
 話は前後するが、宮崎勤と自分とを
 同一視されたく無いが為に「オタク」をつくり
 「おたく」に罪を着せた、
 その動機が、その説明になるだろう。


  誰でも、犯罪者と同一視されたくは無いだろうが
  それは本来、<おたく>以外、誰でもだったのだ。
  何故なら、いくら事実と間違っていようが
  メディアで<おたく>犯罪。と騒がれていた以上
  <おたく>はあの時、立ち向かうべき立場にあった。
  しかし、ここで後に「オタク」になる人格とは、
  人を避けて歩いていたら、そこにアニメや漫画があった
  受動的な「オタク」だ
  「いやぁ、つっても俺、そんなにアニメとかゲーム好きじゃないし」
  といった、メタ化で人格を矯正し、
  「そいつとは違う!」「俺達のせいじゃ無い」と叫んでしまった。


つまり、「オタク」というメンタリティ(又は人格)には
「いやぁ、つっても俺、そんなにアニメとかゲーム好きじゃないし」
といったメタ化で、捉えるべき問題から逃げ
それによって、自分は違うという、優位性や特権性の保持を求め
何度も相対化し、「モテたい→脱オタ」や「モテ以外→非モテ
のような、暴力的な区別で、少しずつ自分の首=「オタク」を締めているのだ*16

で、結局イデの力な訳よ。

しかし、それが必ずしも、
否定され、攻撃されるべき事象だ、とも思っていない。
そもそも俺は「非モテ」とか
脱オタ」は存在しないと思っているが
存在すると思っている人にとって、
それは存在していると思っている。
(これは言葉では、中々伝わらないんだけど。

例えば、電車と駅の関係みたいなものだ。
 電車に乗った<おたく>は
 「オタク」を残して「おたく」という駅に降りた。
 更に進むと「オタク」は「脱オタ」という駅で降りた
 それでも残った客は「非モテ」と自分を名乗った。
 しかし、少し進むと、「非モテ」という駅があり
 そこで降りる事にした。
 それでも、まだ残っている乗客は、
 降りるべき駅を探し、その度に名前を変えていく。
 byATOM-AGE

だからというか、
もう駅に降りた人は、乗客の悪口を言う切符(ライセンス)は
持っていない、のではないだろうか。
何故なら、それより前の駅で降りた人には
その後の駅の存在は、知覚する事が困難だからだ。


しかしここで、まだ終わらない。
今回、ここまで引っ張っているのには訳がある。
実は、「オタク」を攻撃しているのは
「オタク」だけでなく
「おたく」が荷担していると言う事だ。
それが、各所でヒートアップする
原因にもなっている、と考えている。
そこにおいて、
非モテ」「脱オタ」は、全く関係無く
能動的か、受動的が問題になってくる。

新しいセカイの形と、答え合わせ。

今回「非モテ」「脱オタ」関連の記事を
積極的に載せているサイトを見ていると、
明かに「元オタク(自称もしていたりする)」の方の
必死な言葉や、熱意の感じられるページも多いのだが
管理人が「モテ」や「非モテ」、「脱オタ」から
一歩引いて、俯瞰で分析しているようなサイトも
また、同じ位、沢山みかける*17


これは、昔からそうだったと思うのだが
祭りや、ネット内ムーブメント等は
受動的「オタク」達が、幾ら大人数で騒いでも
ムーブメント足りえないのに対し
能動的「おたく」達がいっちょかむと、
途端に、ムーブメント足りえるという、
インターネットだけに留まらない、
ブームの構造的な問題点が、存在していると考えている。


例えば、今回の場合。
非モテ」「脱オタ」に必要な力は
「コミュニケーション能力」と、いわれて久しいのですが
「おたく」から「オタク」への矢印。という、関係性な以上。
内容に全く関わらなくても、受動的であるという部分に、
能動的な「おたく」が「コミュニケーション能力!」
と叫んでいるのではないだろうか。
そこには、受動的な奴を見ると、説教と言うか
おせっかいというか、何か、言いたくなってしまう
能動的な「おたく」という関係が存在し
それは、そもそも
能動的な「おたく」は「モテ」なんてどうでもよくて
楽しそうな所や、受動的な奴を見ると
いっちょかみたくなる
「おたく」の性格にも責任が、十分あり。
結局の所、線路は山手線のような
円形になっていて、グルグル回り
結果的に、マッチポンプの様相を呈していて
それが、ブームや、ムーブメント、
運動の構造なのではないだろうか。
ここまで来ると、「おたく」「オタク」って分け方じゃなく
性格が違うと=人生が違う。
又俺は、性格なんて、いつでもどこでも変わる。
と、実感しているので。
自分の人生は、自分で決めることが出来る(ある程度)。
という事にもなってくるのだ。


ここまで「おたく(オタク)化」は構造的末期を迎えている*18
アニメ・漫画・ゲーム等など
文化は個々に残るだろうし、
それは本来、おたくという括りで
一纏めにされるような物では、なかったのだ
言葉として<おたく>が、残ったとしても抜け殻で、
今度こそ<マニア>と然程
意味は変わらなくなっていくだろう。
その時、「おたく(オタク)化」に可能性は無く。
だからと言って、誰かみたいに
戦時下ではなく、戦後を語ったりはしない。
キチンと、今どうすれば言いかを
明言しておこう、
それは聖☆おじさん化」だ!

聖☆おじさん

聖☆おじさん

*1:http://sside.net/2005/11/post_18.html参照

*2:http://d.hatena.ne.jp/ATOM-AGE/20050827参照

*3:以下、鉤括弧付きのおたくという言葉には能動的と言う意味が付加している。

*4:以下、鉤括弧付きのオタクという言葉には受動的と言う意味が付加している。

*5:必ずしも彼が「おたく」ではなかった事は、様々な方がそれぞれの方法を使って立証しているが、この時点で社会的に彼に「おたく」の重責を被せ、目を伏せてしまった事、また、「おたく」側も目を伏せてしまった事は、個人史として、とても重要な事実だ

*6:犯罪者と、一緒にするな。ゲームで、人を殺す様にはならない(元から資質があった。環境のせいだ等)。俺達は個であり、おたくという言葉で、一纏めにするな。俺は、絶対に人を殺さない。ロリと萌えは違う。など

*7:或いは、おたくメディアが、既存の購買層の保護の為、扇動的に

*8:元々、臭い、ダサい、キモイ、ウザイ、社会的でない、個人的である。と、区別されている事は、おたくと言う言葉の起源から。歴史が証明している。ただし、それを大衆扇動したのは、「新人類(サブカル)」であった、可能性がとても高いのだが、それを踏まえても良くも悪くも、まだマイノリティ意識としてしか、存在していなかった様に思う

*9:個人的には、嫌いじゃないが、相対化されやすい作品であるが故に、意識的である必要がある。

*10:http://d.hatena.ne.jp/derorinman/20051110/1131635978参照

*11:宮崎勤が犯した犯罪からおたく達は逃げてはいけないし、ゲーム業界は、人殺しの部屋から、自社のゲームソフトが発見された事から、逃げてはいけないし、おたく達は「そうだ、ゲームは関係無い」と、対岸の火事を決めこむべきではなかった。

*12:「おたく」が「オタク」とカタカナに書きかわる中で、消し去りたい暗部を、無かった事に出来た訳ではないのだから。

*13:それよりも、「オタク」的メンタリティで、問題の核心は、各業界がたらい回しにし、たまに、「おたく文化」のせいにされる、という悪例が通例になってしまった

*14:「おたく」に責任を被せ、逃げた時の思考ルーティン

*15:しかし本人は、攻撃しているとは言わないだろうし、本気で攻撃している気がないのかもしれない

*16:いつだって、勝手なルールをつくり、雁字搦めになるのは、こういった思考ルーティンだ。「そんな、好きじゃないし」という発想は、逆に過去、自分がおたく趣味に没頭していた訳じゃ無い為、妙に一つのジャンルや、タイトルにだけ、誇りを持ったり、頑固だったり、頑なだったりする。又、自分はまだまだ、○○オタクとは言えないよ、と自分を卑下する。元々人肌に疎い「おたく」に比べ、群れたり、会話をしたがる傾向もある故に、「俺は面白いけど、ヤバクない?」や「あ〜分かるけど、それやっちゃダメでしょ」のような、内容に関わらないが、優位性や特権性に関わる、自己アピールに勤しむ事にも余念は無い。しかし、誰でも、大して思い入れの無い作品には、アレコレ言うが、好きな作品にはアレコレ言わないのではないだろうか。そして、他人とそれを共有する事は、奇跡なのだ。つまり、自分と同じ所で、同じくらいの感動を覚える確率なんて奇跡的な数字だ。だからこそ、「俺は違う」と否定をし合うのではなく、「俺もそうかもしれない」と、人格の存在を肯定し、内包するべきではないのだろうか。余談だが、恋愛には、「あなたがいるから楽しい」という、ファクターが存在する為、奇跡(勘違い)が起こりやすい。だから、楽しいのベクトルが違うだけで、一人の人間が使い分ける事の出来る事だと思う。これは、一人で。これは彼女と。これは友人と。のように。

*17:お前もだろ。と、言われかねないな。

*18:おたくという言葉が、極限に近い形で分解されている