インターネットの対抗軸は、リアルではなくリアリティ。

菊地成孔氏のファンサイト、エスロピII
菊地成孔氏の支持を止める模様。
とても面白かったので、残念です。
あのやり取りなど、菊地成孔氏の評価は俺の中で上がったのだが。
町山智浩氏のBLOG
ベイエリア在住町山智浩アメリカ日記
荒らし対処法として
どうも、一旦終わりを告げ、
他ブログへ移行か、ネット撤退か。

鬼ごっこの鬼は誰か

一部の著名人が、その人格のまま
インターネットに住む事の困難さは、なんなんでしょう。
特にインターネットに造詣も深く、
有効に使っていた人ほど、
インターネットに住む事が
難しくなっていくのかもしれません。
 これは「電車男」でも感じられるのですが
 インターネットの中に卒業というテーマが
 常に、構造として存在している事の象徴かもしれません。
インターネットである以上、どんなに有名な方でも
一応、一定の匿名性が保証されている訳ですが
その「キャラ(人格)」で、うろうろすんな*1
という、無言*2の圧力に
どうしても、抗えない状況が生まれていくのは、何故でしょう。
追い込んでいるのは、誰なのでしょうか。

地方ルール

そりゃあ、別人として匿名性を保ったまま
インターネットを続ける事は可能です。
HPを続ける事だって、出来ます。
 オフィシャルHPなんて、本人だけで管理している
 著名・有名人など、殆ど存在しないでしょう。
しかし、ネット上に存在した人格のまま、
その本人が操る事に、自由度が無くなる事は
本当にショウガナイのかな。


確かに、著作権は保証されず、
肖像権は酷使されない状況では
幾ら自らがクリエイトした、人格であっても
公のものとされ、心を共有される。
それは、心をレイプされるような物で。
サイトを閲覧する側からしたら、無防備な状態。
つまり裸で外出たら、レイプされるぞと
だから、多少有名になったら傷つく前に、どっかいけって事なの?
それってどうなの?
レイプする人のモラルの問題じゃないの。
スラムじゃないんだから、
現実に、外を裸で歩いていても、
逮捕されるけど、レイプはされないだろ。男なら尚更。
でも、裸でうろうろしている奴がいたら、
迷惑だから、止めろって言葉には
国家に、インターネットを管理されない為の
手段と言う意味も含まれていると言う事か。
…いやいやいや、逮捕されないだろ。
ネット人格が有名になって、著作権も肖像権も無い状態で、
住人にボロカスに書かれても、その人格がとても大事で
今後も、ここで暮らしたいと願う事を
管理する事は出来ないだろ。

鬼は傷付かない

妄想が飛び過ぎたので、話しを元に戻します。
いくら匿名性の高い状況であっても
ネット人格も、特定された個である事には変わりありません。
モニターの向こうにいる人間の中に存在する人格です。
 直接肉体的にダメージを与える事は、とても可能性が低いですが。
 心の傷が、いつか絶対治る保証がある。そんな訳ありません。
モニターの前にいる人が、ケガや病気、失恋、貧乏
様々な理由で、タイプする事が困難だったりする事は当然です。
というかそんな事は、流石にどんだけアホでも、分かると思います。
その人格を匿名のまま追い出そうとする*3
行為に含まれる不健全な、違和感とは、
ネガティヴな、自己批判に含まれる、安心された場所。
それと、とても告示しているように感じます。


 「俺は駄目だ」と、言って(考えて)いる時
 この「俺は駄目だ」と言っている人物は、一体誰なんでしょう。
 勿論、自分自身なんですが、解離性障害の症例にも含まれる
 人格を二等分する行為の一部。嫌なことを忘れる為に、
 もう一人の人格を作ってしまう多重人格と、構造的には同じです。
 自分を攻めている自分は傷つかないという
 矛盾を孕んでいる以上、不健全であり、病的です。
同じように、インターネット上での活動は、
人格の乖離を誘発する事につながっていくのだと思います。


 例えば、眞鍋かをりさんが、TVとは違ったキャラを
 インターネット上で展開する事により、支持を得
 その支持をTVにフィードバックさせつつ、
 TV上なり、私生活なりの彼女の人格を統合していった。
 それは、なりきりTommy february6以前、
 以後のキャラの違いを見れば明白です。
 この場合、BLOGを始めた当初から、彼女の人格は乖離し
 (元々、芸能プロダクションに入った時点で
 仕事と、私生活は乖離していたのだが
 それを人格と呼ぶに至るには、BLOGの存在が必然であった)
 芸能人の私生活は、TVと違う。であろう事を発起させ
 二重生活が始まる訳ですが、BLOGの人気が出る事により、
 人格は統合され、現在の眞鍋かをりにいたる。
  と言う事は、もはや乖離の無い眞鍋かをりのBLOGは
  ファンが読む日記以上の物ではないと言う事だ。

鬼ごっこを始めたのは、鬼じゃない

しかし、このままだと
公式ホームページのような場所は、
現実の補助でしかなく、
それ以外は、匿名性を保った、市居の人
という、二極化を生むのではないだろうか*4


匿名性を一定以上に保ったまま
ネットに存在する、人格はいずれ統合され
現実とシンクロを重ねながら
消えていくだけの、刹那な存在でしかないのか。
それこそ、ネットで行われた活動は
人格と共に、消費されるという
現実と同じ、舞台と観客の関係なのか。
それでは、ネットである匿名性を保ちつつ
クリエイトする作業は、淘汰されていくんじゃないだろうか。


インターネットの住人こそ
(うーん住人ってなんだ…VIPPER
 町山氏の所を荒らした人のようなイメージ)
現実と虚構を、混同しているのではないか?
そもそも、ネット人格とは、虚構の存在でありながら、
心はどこかに、さ迷いながらも存在している。
それを人格統合と共に、現実に戻そうとしても
それは、虚構でしか存在出来なく、
戻るべき現実など、ありはしない。
さ迷う心は、現実に戻ったかもしれないが
人格は、市居の人々に共有されつつも
レイプはしないモラルさえあれば
人格は、クリエイトした本人の物として
虚構のまま、存在できる気がする。
予め、虚構の物としてクリエイトされた人格は、
モニターの向こうの心にだけ、
必然性を孕んだ理由が存在する筈だ。
匿名のだれかの理由じゃない。
しかし、その理由には匿名の誰かの存在も、荷担している
という、責任が本当は存在していなければならない。
勘違いして欲しくないのだが、
ネットの活動自体を賛否する事は、必要悪だろう。
が、そこに付随する人格を否定すると
それは、虚構と現実をトランスしているという事だ。

例えばごっこじゃない本当の鬼

例えば、音楽家のCDを聞く行為は、彼がレコーディングをしたという
暗黙の了解がありますが、実際リスナーは、それを殆ど調べない。
(それをする必要が無い様に、法律が存在します)
しかし、プロ(現実でもいいかもしれません)という行為である以上
承諾はあり、お互いが共犯する関係を保つ訳です。
しかし、楽曲を買った客が
「実際のLIVEでは、全然違う。だから、別人だ」
と、考えるとしましょう。
プロである以上、そう思われても、文句は言わないでしょうが。
そこは俺はプロだ。安心してくれ。と、言う以外ないでしょうし。


実際、スタジオミュージシャンが演奏、作曲し
声は加工され、カット&ペーストし倒す事もあるでしょう。
その事を知ったら、今後その音楽家の作品を買わなくなるとしても、
その良いと思った、過去のその音だけは、担保になると思うのです。
原理主義ではないですが、もうその人を信用出来ないとしたら
よりよい、他の商品を探すしかないでしょう。
そして、その事実(噂)から「彼が嘘を付いた」と感じても
それ自体が、人格否定には繋がらないと思うのです。
音楽より先に、その本人と会って人格を否定するほどの何かがあった場合
それは、否定されるべき何かを、彼が内包しているのかもしれませんが。
その音楽を飛び出して、人格否定する事は
楽曲と、アーティストをトランスしていないでしょうか。


そして、CDやレコードではなく
音源データを買うという事になれば、
より、アーティストへの信頼は薄れていくでしょう。
ブックレットにアーティスト写真が1枚も無いだけで、
リスナーとは、不信がる存在です。
それがデータとなると、楽曲その物を買う行為です。
今まで、CDという形式で買っていた音楽は
実は、円盤に焼いているだけですでにデータ
を売っていたにもかかわらず
写真や、歌詞カードに記載された
(作詞-作曲から、SPECIAL THANKSまで)
信頼を売っていた訳です。
それが無くなった時、アーティストは、
ただのモデルになってしまうのではないでしょうか。
そうなると、広告の重要性も増すでしょう。


話しが、完全脱線してますね。


名無しさんより、輪郭はハッキリしているけど
一定の匿名性を守った存在を肯定する事を
書こうと思ってたんだけど、この後は
続いたり、続かなかったり…

*1:この「キャラ」という概念に、ヒントが有る気がします

*2:実際は、無言どころか荒らしたりするんですが

*3:人格統合された人格は、現実に返す

*4:個人を探し、個人に出会うそれだけのサーヴィス