The global standard of another High dimension

人は、観念に縛られずに生きる事は、可能なのでしょうか?
時として人は、神聖化された欲望に、答えのある理想を求めません。
そこには、辿ってきた道が残るのみです。
しかし理屈の中に、欲望を体系化し具体とした対象物の
メッキを剥がす可能性を感じています。


例えばあなたは、誰かを指差しSであるMであると言います。
 S=Sadism(加虐淫乱症
 M=Masochism(被虐淫乱症
その誰かが、実際にSであるかMであるかは、問いません。
つーか、極端なSやMは、私には不自然に見えます。
しかし、その不自然さを「人にはSの面もMの面もある。」
と言う事で、済ませるような事はどうも私には出来ません。


このように、不自然な事柄をアンビバレンツ=両面価値反応である事で
済ませる事の方が、矛盾している様に感じるからです。
しかし相反した事柄を認める心に、問題があるわけではありません。
人は、不自然なモノを自然にする為に言葉を使い
具体化し対象物として認める事を成長と呼ぶからです。
(言葉を知らない赤ちゃんが・・・みたいな事


そこで私が今回言いたい事は、決して理屈がその人の本質を捉えると言う事ではなく
 (理屈がSかMか、白か黒かをハッキリさせると言う事ではありません。
未だ、不完全な状態で漂っている「不自然」を
なにか別の具体化された「自然」にビルドアップさせたいと言う事です。
多分、言ってる言葉が抽象的過ぎて、イマイチ掴みづらいと思います。
そこで少し関係ないような話をします。もう少し付き合って下さい。


例えで出した、SMの話は一見答えが有る様に見えますよね。
 (その人がSであるかMであるかを、科学的・医学的見地から
  分析すると、どちらかというと、サドかマゾかを測る事が出来る
しかし、部分的な立ち位置などでサドやマゾが入れ替わる事や
一つの行為に両方が両立している事さえあります。
えー、細かく説明すると
 家では厳しい父が、愛人とのSEXの時に縄で縛られている―
だから、本質的に父はマゾだ。
この場合、ストレスからくる心因性の被虐淫乱症である。
とかなんとかって言われるでしょう。
そこでこの事から、ストレスの飛距離を対照にした
ほぼ、同距離の家での厳格さをサドの領域だと考えます
しかし、厳格な父親と
縄で縛られた父という
この両面には、知らず知らずのうちにあてがわれた、上下が存在しています。
しかし逆に縄で縛られた父が、常識的であるという価値観の中では
この父親は、隠れて厳格な父親を演じているSと言う事になりますよね。
その場合は、ストレスから来る心因性の加虐淫乱症(淫乱ではないか…)
とか言うんでしょうか


ここで、自然と本人の中でマゾを隠しているという、欲望の方が勝っているという矛盾。
それも含めてのマゾではなく、隠す為のマゾになってやいませんか?
という極端な人間が不自然かどうかの話は関係無くて
知らず知らずのうちにあてがわれた価値観が、二つを差別化する事によって
>「人にはSの面もMの面もある。」
という、上下関係を内包させた物言いに、なっているのではないでしょうか。
そして、人間の裏表は言葉によって差別化されるような事柄なのでしょうか?


答えの無いものに答えをつけてSやMのように差別化したのは理屈です。
しかし、だからこそ差別化するのではない可能性を
作る事が出来るものも理屈だと考えています。


神聖化され答えを求められない物事を差別化して、答えを出す事に無理があったのだったら
差別化した価値観以外の場所に、神聖化された答えを求める鍵が隠されているのではないでしょうか?


人の人生は、分かりません。知ったこっちゃぁ、ありません。
その人の道筋(1秒前の発言のような事も含む)から大体の反応を推測する事しか出来ません。
私が日本人と会話する時は、大体の範疇で価値観を測ります。
このような神聖化された「あたりまえ」に、もう一度メスを入れ
その中にある「幽霊」「超能力」「天才」「神様」
と言ったような、SMよりも、もっと「不自然」で「不明瞭」な言葉さえ
よりキチンとした形で具体化させるかもしれない…
もしかすると言葉ですらない
新しくて「当たり前の真実」が、隠されてはいないでしょうか
長年生きてきた、人間にまだ考えられていない真実が…