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白石晃士 『カルト』

この原稿はスタジオ・ボイスのオフィシャルウェブサイトに2013年7月17日掲載された原稿です。サイトのリニューアルに伴い掲載も無くなったので、こちらで再掲載することにしました。

今読んだらひどいもんだったので、めちゃくちゃ大幅に加筆修正しました。…ですが収集がつかなくなってきたので、また直すかもしれませんし。勝手に載せてるので怒られたら消すかもしれません。

他のもう読めない原稿も時期を見て少しづつ再掲載していきます。

 

 

白石晃士監督による第31回ブリュッセル・ファンタスティック国際映画祭正式出品作品『カルト』は、監督の最も得意とするフェイク・ドキュメンタリー映画だ。

 

主演のあびる優岩佐真悠子入来茉里の三人は本人の役で登場し、タレント業の一環として心霊番組のレポーターをするという、テレビのバラエティ番組のような導入になっている。怪奇現象が起こるといわれている家で撮影された映像には、ある怪奇現象が記録されていた・・・というのが物語の始まりだ。

 

白石のフェイク・ドキュメンタリーの特徴は、観客を怖がらせるといったホラーの機能から大胆に逸脱し、もはやホラーではない全く違う場所に着地させる部分にある。怖がりにきた観客を呆然とさせたり、爆笑させたり、謎の感動をさせたりするその作風こそが魅力なのだ。

 

だが、フェイク・ドキュメンタリーを見るためにはそれなりのリテラシーを求められるのも確かである。本稿では白石作品を見るためのポイントを少しだけ解説したいと思う。

 

フェイク・ドキュメンタリーとは別名「モキュメンタリー」と呼ばれ、実際には存在しない人物や出来事に対し、ドキュメンタリーの演出法で撮影した表現のことを指し。古くはヤコペッティの『世界残酷物語』や『食人族』などが日本でも話題になった。その後、『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』といったヒット作も生まれ。近年でも『クローバーフィールド』や『パラノーマル・アクティビティ』、『RECシリーズ』といった作品等、途切れることなく進化を続けている。

 

近年ではPOVと呼ばれる主観ショットを盛り込んだ作品が増えているが、一人称で手持ちカメラを使う映像は今に始まったことではなく。現在主流のPOVは「コールオブデューティーシリーズ」をはじめとした、ファーストパーソン・シューティング、通称FPSと呼ばれるゲームの影響を強く受けている。主人公はカメラの前に立つのではなく、カメラを持っている側になっているのだ。ということは、物語上の主役がカメラに映らないことも厭わないのである。7月から日本でも公開が始まった『V/H/S シンドローム』及びその続編がこれに当たる。

以前までは主役の他にカメラマンという脇役がいて、カメラを回す動機も担っていたのだが、それも徐々に変わりつつあると言える。

更に3Dになると、主役を見るのではなく、主役の目線を借りて観客が演じる要素が大きくなっていく。これは近年の3D映画を始めとした、映画館での体験が、ライド型アトラクションに接近している事の証左に他ならない。

 

更に、『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』以降主流だった手持ちカメラから、定点カメラ・監視(防犯)カメラを使った仕掛けを取り入れる傾向も存在する。

日本では古くからバラエティ番組で行われてきた手法で、科学的見地からの検証のような場合によく見かける。『パラノーマル・アクティビティ』『グレイブ・エンカウンターズ』や『アパートメント:143』がこれに当たり。ここにおいては、もはやカメラを構える人間すら存在しない。

この手法は、カメラを動かすことで見落としがちな、細かい“異常”も表現しやすく。日常と地続きの世界が、少しづつ変化していく様子を描く為に使われることが多い。

これは、ヤコペッティの時代には信じられていた世界の何処かに存在する、日常から切断された世界から、身近な世界へとテーマが移っている為ではないだろうか。

これは言うまでもなく、撮影自体が特別な行為であった時代から、誰もがスマホで身の回りを撮影できる世界へのリアリティの変化だ。

そして白石晃士監督の最新作『カルト』もまた、定点カメラを使った仕掛けがふんだんに盛り込まれている。

 

フェイク・ドキュメンタリーはその特性上、それを製作した国のドキュメンタリー及びテレビ番組のテイストに強く影響を受ける。例えばインタビューやニュース映像の撮り方ひとつにもお国柄が出る。過剰なテロップやワイプ、効果音、またはモザイク処理の使い方は、日本のテレビ番組の大きな特徴であり、海外のフェイク・ドキュメンタリー作品で見ることは滅多にない。

 

また、ワイプやテロップの使い方を見てもわかる通り、日本においてテレビ演出はバラエティ番組の影響を強く受けているため、その理解はフェイク・ドキュメンタリーを考える上で非常に大きなウェイトを占める。

 

1970年代から80年代にかけてヒットしたテレビ番組、水曜スペシャル川口浩探検隊シリーズ』は、日本のフェイク・ドキュメンタリー史における草分け的存在だ。当初はドキュメンタリーとして見られていたが、現在では「やらせ」と呼ばれてしまうような過剰な演出が話題を呼び、本当か嘘かといった議論も含め視聴者の心をつかんだ。 

過剰な演出を承知で、半ば演技のようなことをしていた川口浩と、それをまるでドキュメンタリーだと視聴者に思い込ませる演出は、フェイク・ドキュメンタリーといっていいだろう。

 

しかし「やらせ」と演出の境界が曖昧なように、バラエティとフェイク・ドキュメンタリーの境界もまた曖昧な筈だが、バラエティに対しては言っても、フェイク・ドキュメンタリーに対してやらせとは誰もいわないだろう。それはフェイク・ドキュメンタリーが、既に「やらせ」であるとバレているからだ。だとすると、フェイク部分の演出の良し悪しが、そのままその作品の評価になってしまうというのでは、フェイク・ドキュメンタリーがジャンルとして限界を迎えていると言わざる負えない(ジャンルの縮小再生産しか出てこない)。しかし本当に限界を迎えているのならば、わざわざ取り上げない。白石晃士監督は、その限界を世界に先駆け突破する、新しいフェイク・ドキュメンタリーの旗手なのだということを、少しづつ説明していきたい。

 

そこでまずは、川口浩探検隊のようにバレないようにする必要のなくなったフェイク・ドキュメンタリーは今、バラエティと共に、どのような形に進化していっているのかについて考えていきたい。

 

フェイク・ドキュメンタリーが、構造上バラエティ的要素を含意していることは先程書いたが。最初からバレているからといって、それを前提としたコメディ要素を盛り込もうとすると、白けてしまう場合が多い。例えば海外のコメディ映画を思い出して欲しい。エンドロールの前後にNGシーンが挟み込まれているものを多くみかける。そこで行われるNGの多くは、俳優が笑ってしまうことでNGになっている。真剣に問題とぶつかる過程で笑いが生まれるとするなら、登場人物が観客を笑わそうとしてしまうと、笑えなくなってしまうからだ。白石の諸作品もそれと同様に、徹頭徹尾シリアスなトーンを崩さない。

 

それと対称的に、お笑い番組でタレントが役割を超えて笑ってしまい、その笑い顔をカメラから隠す姿を見せてしまう、という見せ方があるが。演じる自分を超えて笑ってしまった、というリアリティであるためOKテイクになっているわけだ。何故このような違いがテレビと映画で生まれてしまうのかと言うと、テレビでは演じられたキャラクターではなく、演じているタレントを見ているといった違いがある為だ。

タレントを見ているということは”あえて”キャラクターに没入しないという態度でもあり。一度”あえてを”飲み込んでいることで、キャラクターではなく状況(番組ごとのルール)に没入する準備が出来上がる。その結果、キャラクター達の関係性を”観察”するといった見方に観客はズレていくのだ。

そしてフェイク・ドキュメンタリーはテレビの影響を強く受けることで成立している、と先ほど書いたように。この関係性が白石を、世界的に類を見ないフェイク・ドキュメンタリー作家たらしめている遠因にもなっていると言える。

 

それを端的に表しているのが2010年の『シロメ』だ。この映画は、アイドルグループ「ももいろクローバー」が本人役で主演を務めるフェイク・ドキュメンタリー映画である。彼女たちには映画の趣旨は伝わっておらず、廃墟へのロケを決行してもらう過程で、様々な恐怖演出が彼女たちの身に降りかかる。そこに彼女たちの意思とは関係なく、編集でフェイク・ドキュメンタリーのテイストが足され、最後にとある事件が起こるといった内容になっている。

 

これはいわば「ドッキリ番組」だ。演出されたアイドルのかわいさよりも、本当にビビった時に出る素の表情や、目線のやり取り、とっさの行動から伺えるメンバー同士の関係性を浮き彫りにする方が魅力を引き出せる、と同時に。演技経験の足りなさ、予算の少なさ等といった、マイナス要素の中で活かせる演出法として「ドッキリ」が採用されたのではないか、と推測される。

 

バラエティ的なドッキリという構造上、映画であるにもかかわらず、前述したように、キャラクターに没入せずに、彼女たちを観察するという立場にズレる(主役であるアイドルに感情移入するのではなく、寧ろ監督の側に立っている)。そのため、この映画を見て、「彼女たちを騙すなんて許せない!」とは流石に言わないだろう。 どちらかといえば、観客も共犯者なのだから。

 

しかし、『シロメ』にはメンバー内で一人だけ、この構造を事前に知らされているメンバーが混じっている(騙されるふりをして騙している。逆ドッキリ)。ということは、そのメンバーだけは、キャラクターを演じていたことになる(素ではない)。監督の側に立ち、ドッキリを見ていた筈の観客ですらも、気が付くとフェイク・ドキュメンタリーの世界に引きずり込まれていたということだ。このことから、ドッキリ とフェイク・ドキュメンタリーの境界は、体験をする主体がその構造を知っているか否かにある(逆に言えばそこしか無い)ということが分かる。

 

一度整理しよう。観客は映画であるにもかかわらず、キャラクター(映画の中の役)ではなく、タレント(日常と地続きの素の状態)を見ている。その為、この映画を感情移入ではなく、観察の方法で鑑賞している。しかし一人だけ素の状態のタレントではなく、演技をしている映画の中のキャラクターが存在することが徐々に明かされていくに連れて。ドッキリというバラエティ番組ではなく、フェイク・ドキュメンタリーという映画の世界に逸脱し、観客は観察の状態を脅かされてしまう。つまり、映画の中で完結せずに、観客自体の状況を変えてしまっているのだ。

 

世界のフェイク・ドキュメンタリー作品については、それなりの数を見たと思うが、こんな手のこんだことを、全くお金をかけずに作るのは、世界中を見渡しても白石晃士監督しかいない。フェイク・ドキュメンタリーが持つジャンルとして限界を、ただ唯一白石晃士監督だけが突破していると感じるのはその為だ。しかしこの映画だけでは、白石晃士監督作品の入り口に立っただけにすぎない。

 

今、白石晃士監督のアイディアが爆発しているのが、『戦慄怪奇ファイル コワすぎ! シリーズ』であり、『カルト』だ。

 

前者では低予算ながらも数々のアイディアを取り入れ、フェイク・ドキュメンタリーのこの先の可能性を表現している。「えっ!?」と思わされると同時に、爆笑の渦にも巻き込まれる。

 

そして『カルト』。初めて白石晃士の名前を轟かせた『ノロイ』にテイストが近いが、後半部で『ノロイ』とは違う形で大胆な逸脱をする。そのキッカケとなるのが、白石のもう一つの武器である「ヤバイ人間」の存在である。

 

白石の作品にはほぼ全て「ヤバイ人間」が現れる。「ヤバイ人間」とは幽霊や妖怪のことではなく、文字通り人間のことだ。ただの「オカシイ」人。それは異世界へのハードルが低い人間、あるいは既に片足を突っ込んでいる人間として現れることが多い。

 

『グロテスク』『オカルト』『バチアタリ暴力人間』『超・悪人』と製作を重ねていくに従って、そのベクトルは、頭がオカシイ人から暴力的な人間(或いはDQN)へとシフトしていく。「ヤバイ人間」たちは圧倒的な暴力性で、ホラーやフェイク・ドキュメンタリーの枠組みをも壊してしまう。その結果、別の何かにしてしまい。やがて観客は、何を見てるのかわからなくなってしまう。

 

近作になるほどに、規模の大きな暴力から、ミニマムな関係性の中での圧力へとバランスが変化しているのは。世界の潮流と同じく、日常と地続きの世界をリアリティのベースにしつつも、日常からの逸脱を描く白石監督の作家性が如実に出ている部分だろう。その逸脱の為の装置として、暴力は今も描かれ続けている。

 

「ヤバイ人間」の演出の中でも究極のバランスをとっているのが、『戦慄怪奇ファイル コワすぎ! シリーズ』の工藤である。具体例は省くが、人間だろうと幽霊や妖怪であろうと平等に高圧的で、幽霊や妖怪もぶん殴ってどうにかしようとする人物だ。暴力サイドの「ヤバイ人間 」と、フェイク・ドキュメンタリーサイドの幽霊・妖怪によるガチンコバトルがこの作品の魅力の一つだといえる。これは、白石サーガにおける「エイリアンVSプレデター」ともいえるだろう。

 

そして『カルト』ではまったく新しい「ヤバイ人間」が着想されている。それは頭のおかしい人でもなければ、暴力人間でもない。なんと「ヒーロー」なのだ。彼がどのようにスクリーン上を暴れまわるのかはご自身の目で確かめていただきたいが、この人物の登場により、ホラーやフェイク・ドキュメンタリーが持つ文脈は崩壊していき、少年漫画や、ニチアサヒーロータイムのような、観客が予想もしなかった世界観が立ち上がる。

 

仮面ライダーオーズ」で、敵でありながら仮面ライダーと行動を共にする「アンク」役を演じていた三浦涼介が配役されているのには、こういった必然性があるのだ。

 

いずれ、NEOと工藤が戦うのか手を組むのか分からないが、そのようなアベンジャーズや特撮ヒーロー対戦が見れたら本当に最高だ。それは世界中の誰もがやっていない、映像体験になるだろう。

 

最後に私見になるが。私達には私達なりの法則で説明できる現象の世界に生きている。そしてテレビ上には、私達とは別の法則の世界があり、そこにチャンネル(チャネル)を合わせている。少なくとも、そう演出された世界がバラエティであり。テレビを信じようと信じまいとに関わらず、その演出方によって、私達と同じようで少しズレている異世界を覗き見ているに過ぎなかった。それは、かつてテレビという存在そのものが、フェイク・ドキュメンタリー的な、虚実性そのものであったということでもある。しかし、少しづつその境界は曖昧になっている、とSNSを通して世界を覗き見していると感じてしまう。そういった感覚を白石晃士監督の作品は、見事に捉えているといえる。

 

フェイク・ドキュメンタリー界を牽引するスペシャリストでありながら、フェイク・ドキュメンタリーを逸脱するアウトサイダーの顔を持つクリエイター。見たことがある筈の映像なのに、見たことがない体験を覚えさせるーーこれこそが白石晃士の本質であると私は考えている。