アイドルは死んだがキャラバンは続く


アイドルの概念自体は既に死んでいる。誰もが自分のメディアを持ち自己プロデュース出来る時に、アイドルとは生活の中に自分で発見するモノであって。それのパッケージ化―カタログ化―が美少女図鑑や美人時計や美人すぎる素人。そういう意味で、アイドルは居るけどいない、霊のようなものだといえ。見えないものを見ようとするその目が、ただの人間をアイドルたらしめている。


それはアイドルの単価辺りの価格が著しく下がったということでもあって、どれだけ売れていてもアイドルは、カリカチュアライズされたごっこ遊びと本質的な差異が無くなる。一人ひとりが自分だけのタイムラインをセカイと認識した時、国民の総意としてのアイドルは、その役目を終えたと言える。すなわち、それでも今アイドルをやるということは、本人がやりたいからやってる、とファンが言い訳出来てしまう所があって(事実そういった側面は大きいがポップは縮小しても消費財)。この期に及んで、本人のやりたくない(かもしれない)事をやっているってことは、ファンがやらせているという事で、自分がレイプ魔である(かもしれない)姿を鏡写しにするセクシャルな活動は見たくないのかもしれない(セクシャルに的を絞らなければ、ネタ選考型で本人が置き去りになっている活動は、運営のドヤ顔ウザスになる)。


この時に、うしじまいい肉が逆説的に浮かび上がる。セクシャルかつ本人がやりたいからやっている(ように演出された)人の極北であり、森万里子パフォーマンス・アートの文脈でも捉えられる(この間に熊田曜子ほしのあきだったり中川翔子仲村みうといったグラデーションが見える)。
セクシャルな男性原理によるハラスメントはべつに、男だけに実行権が握られているわけでもなく、開かれているのだ。特定の性的嗜好を持った男性がいやがっている女性にしか興奮しなかったとしても、そこにあるセクシャリティは演出でしかない。殴ったら殴り返されるのだ。この人痴漢ですと手を取られたら主従関係は逆転する。そういった男性のセクシャリティの暴力を、小学生女子に奪われるのが、漫画/アニメ作品『こどものじかん』だと言える。冤罪だとしても。


ウーマン・リブ運動でも、マドンナでも、おされヌード(セルフ・ポートレート)でも、ある種ネタ対象としての側面も引き受けつつ―受け流しつつ―、長年セクシャリティ実効支配権を巡る争いは連綿と続いてきた(そんな知らないのでサラっとだけ)。ある文脈に置いては、AVも主体的に選ばれる選択肢の一つであるだろうし、ヌードも若い内に美しい体を残しておきたいという、客体が取り除かれた自己表現としての側面を持つし(抑圧もあろうが)。セクシャリティの、客体から逃れ主体を獲得する歴史においても、うしじまいい肉セクシャリティはラディカルに映る(昔ワンダフルという番組を見ていて、男を食うと表現していたのを聞いて、こりゃあ大変なことになって来たゾと思った記憶がある)。ということは、恵比寿マスカッツピチカート・ファイヴかもしれないのだ。


話を戻すと。アイドルも運営も、なにを言われようとやりたいことをやってよくなった。愉快なら見るし、でなければ見ない。その位、敷居は低い。アイドルマスターよろしく、やりたきゃ自分で勝手にアイドルを消費する。オリコン○位は即ちモチベーションに繋がるけれど、定期イベントの一つであって、実は何位であっても見たいから見てるに過ぎない。ランキング圏外だから興味がないって人は、一位でもお金を払わないだろう(勿論知ってる/知らないっていう認知度はあるだろうけど、検索技術やtwitterフォロワーの偏りでかなり左右される)。金払ってんだから文句言うぞってのはもうお終いでいいじゃない。誰もがオブセッシブに振る舞う必要はない。ただそこに存在しているだけで、会いに行く日もあればケーキ食う日も映画見る日もある。するとアイドルは映画館やレストランとも並ぶ(という言い方をするとAKB劇場を思い出すだろう)。
例えばあなたが毎日通うコーヒーショップにタイプの異性(同性)店員がいたとしよう。毎日通っている内に、お昼の休憩の為にショップに通っているのか、店員に会いたくて通っているのかは漠然とする。その時に購入するコーヒーと、アイドルの握手会参加券を有したCDを購入することに違いはあるのだろうか。はたまた何の気なしに入った隣のバーガーショップの店員が、コーヒーショップの店員とはタイプの異なる、だがしかし確実に心をつかむチャーミングな店員だったとしたら。
我々がショッピングモールに行き、どの店に入るか/入らないかは自由なのだ。同時に近所で馴染みの店で買い物をするのも、生活を圧迫しない程度にはライフスタイル選択の自由だ。


そうなるとアイドルの全てを消費する、大作RPGスタイルではなくなり、本人たちは常に初めてのお客さんを相手に敷居を低く設定するだろう。日常生活の隙間に、小さな物語の断片を消費したりしなかったりする、例えるならばモバゲーやグリー的なものになるのではないか(んでそういったものとしてUstを活用できている女子流ちゃんヤバす)。


といった変化を、好き/嫌いから快/不快の時代になったと捉え、社会の根幹をなす思想的な概念が変わった/変わっているのではないかという仮説が思いつく。例えば嫌韓なんて文字通り好き/嫌いで、嫌なら見なきゃいいってのは、快/不快。といったように、今起きている対立の多くは、この思想的対立が根幹にあるのかもしれない。好き/嫌いによって強く紐付けられる〜しなければいけないっていうのは最早幻想でしか無く、各々の個人的問題でもなけりゃやりたくてやってる人を、見たくて見てるだけで、必ずしも男性原理も女性原理も強者じゃない。開かれたセクシャリティとどう出会い消費するかは、少なくとも受け手にとって自由になったと言える。言い過ぎた


本当はそんな事全く必要ないと思うが。もし今アイドルを再定義するとしたら、日常生活に乱数で入り込むバグや隠しキャラ(はたまた幽霊やお化け)のようなものだろう。彼/彼女たちは、社会に潜んだゾーニングを超えた日常の侵略者なのだ(デデーン)