けいおん!!〜マジすか

いくつかの失敗したアニメは世界感を作ろうとして失敗しているのに対し、けいおんは徹底的にキャラクターを描いてストレスレスな空間を構築した。それをエピソードでなく肉体で表現したからこそ空気系としての存在感がある。その肉体表現の下地に京アニダンスがある。
もしけいおんは部室を主役にしたら失敗していた。100%無いが、もし第三期があっても、vo.gu.ba.dr.key.の人数は超えないでしょう。最終回カメラは誰もいない部室を写すだろうか。入れ替え可能な部室で二年生が三年生になる時物語は終わる。これを究極超人あ〜る現象という。


僕が空気系作品やマジすか学園戦国BASARAゴセイジャーに共通して感じるのは、最初から強くて成長しないっていう事(恐らく物語の要請で強いだけで強弱はない、とすら思う)。これは勉強とか努力とかが嫌だとダイレクトに言ってるわけじゃないと思う。ただ(この状況で逃げ切った上の世代のヤツらに)成長しろと言われるのはめちゃくちゃムカついてると思う。
この成長システムに付いて僕は、フラグ的成長っていう風に最近は捉えてるけど、よくある映画マニアと邦画の間の壁もここのせいなんじゃないかな。ライダーも戦隊ヒーローもどんどんこっちに行ってると思ってたんだけど、Wはアレ?って感じ。ゴセイジャーはめちゃフラグ的。
これはよくは聞こえないと思うけど、ネット以降のどこかにこれの答えは転がってる、あとは道筋をどう効率的に回るかという論理に寄せて考える事も、このフラグ的成長モデルの背景として説明可能だと思う。


話は戻って、マジすか学園が世代交代を匂わせて終わったのは凄く象徴的で、あの先はない(続きは二次創作。そしてこれは、エヴァ・サマウォ、ディケイド等に読み取れる、公式による二次創作の流れの一つだと言える)。珠理奈を梓にゃんにしたらそのまんま。永遠なのは校舎、この時はもうすぐ終わる、人は入れ替わる前提だがカメラのフォーカスは彼女たちの背中に向いている。
これに物語がないと言い出したら主役は脚本や構造なの?と思う事もしばしば。
そう考えると分かる。けいおんのふとももを始めとした肉感と、マジすかにおける喧嘩は同じものを描いている。どれだけアイデア溢れたキャラであろうと、実存感の無いキャラは1クールの嫁なんですよ。
空気系の喩えからは離れるけど、クドカンドラマや、とらドラがグッと来るのは、その瞬間確かにそこにその人間が存在したという感覚があるからでしょ。そこは一緒なんだよ。なんていうか物語がキャラクターを動かしてるんじゃなくて、キャラクターの内面から物語が滲み出てくるんだよ。これらの作品たちは。
二次創作的想像力、ポストネット世代の行動様式。何とでも言えると思うし何とでも言えばいいと思う。
この瞬間この触感。
意外にもこの一言が全てを言い切ってる。習字にして部屋に貼ろう