愛のむきだし


今は何が正しいのか分からない、と大衆意識を分析する言葉がありますが。そこには失敗の困難さからくる、成功譚の肥大化という問題が見て取れます。私はここにネット的なアーカイヴがデフォルトになった世界を見ます。誰もが映画に正解は無いと言う事を分かってながらも、どこかにある正解らしきものを探しているかのようで、この映画についてはこう振舞っておけばOKみたいな態度にイライラしています。安全に正しいことを正しいといい、間違ったことを間違っていると言うことで消費しているのは、果たしてその作品でしょうか。本来人間はバグがある事で、世界を世界と認識しています。つまりバグの無い世界は、バーチャル世界ってことですよ。この映画でも「随分遠回りしちゃった」ってセリフがありますが、もがいた結果があのラストです。むしろ、たとえ間違っていたとしても、全ての文脈をすっ飛ばして、ダイレクトにアクセス出来る態度を決断していきます。この映画が、237分もの時間を使って駆け抜けるのは、過剰な断片の集積であり、90年代の隘路を全て詰め込んだような、圧倒的な映画力です。そしてその最初と最後を除いて、全てが間違いだと言って良いでしょう。そしてこの映画はその殆どの時間を、間違いに割いていることが分かります。このことを表現しているのが、ゼロ教団の台詞や、ゆらゆら帝国の主題歌が表現する、空洞です。最初の部分は、多少カットされていますが、母親と息子であるユウの会話の部分。最後の部分は、言うまでもなく、ユウとヨーコの会話の部分ですね。


しかし、本質である周りの型が重要で、空洞は空っぽなのかというと、それがこの長さな訳で、この空っぽが90年代のことを指しているのは間違いなく、同時に90年代を葬るのに237分もかかってしまった監督自身が、90年代的な自主制作発、B級行きの監督であることが皮肉的ですね。そして、愛のむきだしは、限りなくA級に近いB級映画であるポジションから突き抜けることはできないでしょう(そして監督も心のどこかで駄目だと思いながらも、そこにいる居心地の良さを肯定してしまうでしょう)。これは90年代を生きてしまったある種の業だと思います。ですから、この映画は二次創作という脱構築的な態度なわけですね。


かわいいは正義」ってネットジャーゴンがあるけども、この言葉はとても社会的な不安定さを表現している。「かわいい」と言う、文脈を無視して全人格を承認するという態度は、完全なる願望です。理屈抜きで全承認されたい。この映画における女装も同じです。女装によってユウが承認される過程は、理屈じゃないんです。その奇跡さえコイケによって演出・捏造されたもの。これはアニマで説明がつきます。ユウにとってのアニマは母であり、その母の代替であるマリア像ですね。これは、自分の中の承認の対象である母という価値体系そのものを支える、ユウにとっての正解の象徴です。もちろん、ある種のマザコン、幼児退行でもあります。そのかわいいに「正義」と言う強い言葉を繋げざる終えない、自己評価の低さと、自分自身が誰かを承認してあげる立場としての厳格さですね。つまり、”かわいい”という前段における感情的なアクセス権と、”正義”という後段における厳格なアクセス防壁によって出来ているんです。この映画における「正義」は皆さんもお分かりのように、キリスト教ですね。そもそもキリスト教徒という厳格な価値観(結婚の制約など)によって、様々な回り道をする羽目になるわけです。これは、父親は勃起しないし、女に人生を壊されるような人間ではない。という開き直りとも言い換えられる。何故なら、自分は勃起しないからですよ。そして自分は母親を守れなかった悪い子供である、と言う低い自己評価なんですよ。


「イケメン」という言葉にもそれは見て取れますよね。最初はイケてるメンズという意味だったが、現状はどうですか?顔がカッコいいことを「イケメン」と言いませんか?ともすれば、雰囲気イケメンなんて言葉すらある。雰囲気がイケてたらイケメンでしょうw。でも不細工じゃん、がつくからですよね、これは。顔が整っていることと、ブサイクなことは、絶対的な価値観だと言う傲慢さがここから見て取れますよね。ヨーコも同じように、サソリの格好をした女性と言う記号を愛しているに過ぎなく、その中身は入れ替え可能なものとして表現されています。同じ人物であるにも関わらず、男と言う勃起する性というだけでNGを出しユウそのものを見ようとはしない。ましてや盗撮王子。


しかし、最終的に脱洗脳されたヨーコが愛せるか愛せないかを分ける、感情的なアクセスに、サソリというシャドウは関係ない。もっと言えば、変態性を決定づける盗撮王子としてのユウは、公の評価としては最低な筈じゃないですか。例えば、同じ赤と言っても、一人ひとりが思い描く赤は違うわけです。一人ひとりの体験と言うものは必ず別個のもので、感情のトリガーは一人ひとり違うわけです。たとえ同じトラウマであっても、ユウの思い出と、ヨーコの思い出と、コイケの思い出は別なように。トラウマや変態や勃起という言葉にして公のものとして(対象のせいにして)安心しているだけで、絶対的な価値観というものを便宜的に機能させ、それがまるで自力で存在しているかのように見せているだけなんですよ。そして、そう言う行為は、概ねカルトであるわけです。そうゼロ教団のことです。この映画は恋愛だってカルトですよと言っているわけ。たとえ間違っていたとしても、全ての文脈をすっ飛ばして、ダイレクトにアクセス出来る権利そのものは、キリスト教にもゼロ教団にも父にも母にも、ましてや社会的に断罪される理由なんてないんです。超変態でも、好きなら関係ないんです。むしろ自分だけが知っているレアメタルと解釈されるんですよ、これは。


世界はそもそもバグが存在する仕様なんですよ。この映画におけるバグとは勃起という形で表現されるむきだしの愛です。勃起のしない状態というのは、不自然なわけです。そして不自然な状態はストレスなわけです。ストレスは良くないですよね。なら自然な方がいいに決まってますよね。という映画だと思います。残念ながらセカイは誰かの都合で明日終わったりしないんです。ちなみに、90年代に流行った、いついつ世界が滅亡するという予言は今まで一度も当たったことが無いんです。



前回書いた文章は、愛のむきだしの感想だったんですよ。っていう事です。こっからは、話の中身以外の部分的メモ。

確かに4時間があっという間だった。正直最大の高揚感はチャプター1のラストだけど、最後までドライヴさせて全然飽きさせない。多くの感想で見かけるように、物凄いモノを見ちゃったなって感じ。邦画を見ているときに感じる独特の突き抜けなさは、殆ど感じなかった。大陸的想像力の存在しないこの国で、圧倒的な映画力を見せつけるには、4時間と言う膨大な筆圧で塗りつぶすしかなかったのかもしれないですね。でも、多分ここら辺が限界なんだろうとも思う。いやそもそも、別物なんですよ多分。この独特さは海外の目から見たらオリエンタリズムとして、光る部分ですので一長一短でしょう。大国以外はドメスティックな壁にぶつかってますよ。どこの国だって。まー宗教的なもんはあるかも知れないけど。キリスト教って、自分達の上にいる存在だけど、仏教って自分の内面にいる存在だし。


何といっても、安藤サクラの発情したブサイク顔がマジ戦慄。体もいやらしい。あの怨念の篭ったPerfumeは壮絶なもんがあった。時たま…あれ?かわいいか?となる所も含めて。良い意味で。
満島ひかりって全然気にしてなかったけど、この映画では超かわいい。んで、裏ではうわっキモって言ってる感じがたまんない。なんか、最初は普通の女の子として台本かいてたらしいんだけど、満島ひかりに引っ張られて、パンキッシュなトラウマ美少女にしたらしい。だからあてがきなんだって。この映画の憑依率ちょっと尋常じゃないもんね。お芸術様じゃなくて、ちゃんとエロかったもんな。俺も勃起しますよ。ただその事によって、ヨウコがコイケに負けちゃってるので、キリスト教聖書第十三章を絶唱する長回しにかけてみたと監督が言っていた。
西島隆弘は三人の中でも奇跡的な役だった。無垢な神聖さを、嘘くさくなく見せる表情。女装は石原さとみみたいだし、アクションにおける見栄が完全に決まってるので、いくらギャグが滑っても、映画全体が全く滑らないのは、西嶋君という人間が、ユウの役をできる唯一無二の存在だからなんじゃないか。この三人の構造って三人別々に描いてたことで分かるように、主観が変わることで、セカイ系にも決断主義にも見えるよね。


逆にAV会社やロフトプラスワンのシーンの痛さは、ホント90年代的で、ネットなどによって過剰にアーカイヴ化されたゼロ年代において並列化されると、自意識のスペシャリティが、今、全く機能しなくて、内輪で痛さ自慢してたって、へー、としか思わんという。

それともうひとつ気になったところ。ユウにとってヨーコがスペシャルであっても、それが、ヨーコにとってはサソリっていう記号でしかなくて、また外見さえ同じなら入れ替え可能なカルトだが、ユウにとってはそうじゃない。って部分なんだけど、本当にそうなのかな。あそこでコイケが戦ってたらどうなんだろう。男の悲しさみたいな文脈に回収されちゃうのは、なんか嫌だ(そもそもそれが勃起って言う主題だからしゃーないけど)。それって、ロフトプラスワンじゃん。ユウが潜入するって時は、あー教祖になるのねって思ったんだけど、あそこでコイケを舞台から退場させちゃったのはちょっと都合いいよな。


なんにしろ、暫く引きずるタイプの映画だったな。凄いよ。すごい映画だってことは確か。