崖の上のポニョ


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絵については劇場やBlu-rayで見たわけではないのですが、それでも波の上を走るポニョは感動的で、同時になんか怖い。そう、ポニョは徹頭徹尾、何なのかが分からなくてとても不安な存在だ。ぼんやりとしたポニョ像は見えるが、口を開けば「そうすけすきー!」。人格と呼べるようなものが無く、とても不安になる。子供の為という話をよく見るけれど、このポニョが不安な感情は、お母さんが赤ちゃんに感じる不安に近い気がする。子供向けに作ったのだろうが、結果的に出来たのは、初めて赤ん坊を育てるお母さんの不安神経症的な世界ではないだろうか。脈絡の無さや、辻褄の合わなさや、オチの無さや、モラルの無さ、金魚に水道水、母親への呼び捨てなど、批判の殆どは、男が女に向かって言う文句そのままだ。それもその筈、この映画端から端まで女の映画。初めての子供と向かい合う女性の不安と、それをサポートするようには出来ていない社会からの解放と飛躍がそこにはある。


宮崎駿が描いたテーマは、現代的社会問題であり普遍的な不安だと仮定して話を進めます。私が殊更に言うまでも無く、今は不景気で、少子化で、子供を一人育てるのにだって不安で堪らない。昔だって勿論そうだよ。でも昔もそうだった、に対して「今はこれこれこう違うんだから黙ってろ」って言ってもしょうがない。勿論、今は昔に比べ、社会のセーフティネットが崩壊しているし、個人に委ねられる責任は、おじさんおばさん世代が感じているよりも、遥かに大きい。そんなに一人で抱え込まなくてもいいのに、と人もテレビも言うけれど、抱え込まされる事を選択させられるプレッシャーは、個別の問題として一人一人に降りかかる。でも、それは言っても意味が無い。今と昔は違うことは当然だから。状況も環境も違うけれど、大前提として、子育てはワンアンドオンリーの体験だ。今まで数多くの話を読み、聞いていても、子供と接する機会が多くても、関係はない。どこかの誰かさんの言葉が『昔』で、体験してるあなたが『今』な事は、地球が引っくり返っても変わらない。だから一部の女性が特権的に、この映画を分かり合える。私はここにも隠れた構造があると思っていて。それは宮崎映画が=" ファミリー"映画であることを意識して作られていると言うことで。子供がぽーにょぽーにょぽにょ見に行きたい!そうすけすきー!というかどうかは分からないが、子供は一人では映画を見に行かない。子供をつれて映画館に足を運ぶお母さんを、勇気付けたかった、という戦略なのだ。私はこの問題を取り上げた宮崎駿は、やはりクリティカルだと思う。のりぴーもサマーウォーズもおねーまんも腐女子小悪魔agehaも、全部同一ライン上にある、抑圧と逃避の話だし。草食系だとか婚活だとか、オトコノコ化を迫るセカイも同じ。現代の話。そして、ポニョも同じ現代的不安神経症を描いた社会的な話だ。あれだけ巨匠として上がっちゃったおじいちゃんが、社会問題をクリティカルにヒットさせつつ、普遍的でニッチなテーマも同時に描いた素晴らしい映画だと思う。そして、子供が生まれ続ける限り、この映画は愛され続けるんじゃないかな。それを捉えた全ての人間が、私だけの体験だと感じることだろう。


"仕事も家事もバリバリこなす『かっこいい女性像』"っていう、女性特有の圧力があるのだとしたら、働く女性って相当しんどい。そのトレンドの我慢比べってどっかで破綻が起きても、個人の物語に帰結しちゃって、さらに、かっこいい女性って物語を補強する。女性が頑張らないで生きるなんてそんな選択肢あるのかな。今、男性だけが働いて、子供育てるだけの給料稼いで、そこそこの暮し出来てる人ってどのくらいいるんだろうか。映画や女性誌やドラマで描かれるステキな生活にだけが、唯一の最適解じゃない。いや、良いとか悪いとかではなくて。「底辺で満足しろ」なんて意味ではなく。でも究極的に何もなくたって、楽しかったりするのも事実なわけ。つまり"ポジティヴ"という名の上昇志向から、いつでも降りられる環境が無いとキツい。少なくともこういった我慢比べから開放しないと、バブルは終わったなんて安易に言えないと思う。カッコいい女性へのポジティヴな憧れからしたら、映画程度の力、簡単に絡めとれる。でも、ポニョ見てる間は、それでもいい自分が肯定された気分になる。いや、それってどうかと思うけれど。今その語り口がクリティカルだという事を捉えた嗅覚は、天才の名を全く汚さないだろう。ファスト風土化したヤンママの映画を宮崎駿が撮ったと矮小化すれば、これほどセンセーショナルな事は無い。