創作物の主体・責任の所在


映画を泣ける・泣けないで判断する事と、お笑い芸人をツマラナイから消えろというのは、効果として現れる結果(それが泣けるかどうか、それが笑えるかどうか)が前提の、言うなれば創作のサプリメント化(演繹的作品体験)という意味で同じ。創作物の主体が作品から飛び出て客になったということ。作者を絶対的経典とする考え方ではなく、「私はこう思った」という体験・体感が、その作品自体の意味性を司る。掲示板やブログが影響しているとか安易に言いたくなる。


例えばCDよりもライヴという流れも、こういった体験・体感が音楽であるという、作品自体の意味を個人的体験に落とし込む作業だといえる(音楽よりもダンスが上位概念にあたるダンス-ハウス-ミュージック、ひいてはパラパラやオタ芸などの振りは分かりやすい例えかと)。悪く言えば近視眼的。


批評や論考が必ずしも客観的である必要はないが、その有り様は変わる。かたや「ソース出せ」文化は未だに存在し、amazonのカスタマーレビューを読むと、主観的な体験・体感などがソースに当たるタイプの作品は、根拠のソースが提出がなされないという理由で、評価が低い傾向にあるようだ。恐らく、ネットの感想は双方向サービスであるのに対し、作品は一方通行であることがこの齟齬を生んでいるのではないだろうか。作品こそ(評論や論文であろうと)、主観的な体験・体感を元にごりごり進めていかないといつまで経っても出来上がらないもののような気がするのだが。最初に戻って、思っていた効能が結果に現れなかった為かもしれない。そうだとしたら「鏡を見ろ」という話にはならないか。


エンタメとして、という物言いがあるが、それは主観的な体験・体感から導きだされる考え方だと思える。そこで得られる気持ちよさは、結果的にエンタメとして最低限当たり前の技術を疎かにするといえなくもない。そもそもエンタメはジャンルでもなんでもなく、最低条件であって、絶対条件ではないのではないか。面白いの価値観が個別の仲間内レベルで多様化している時に、面白いものは、『素直に』面白いでいーじゃん。というのは、自分語りや、トライブ語りでしかありえない。彼や彼女のことを知らないと、この面白いがなんなのか分からないという事になり。レビューとして不十分なのではないか。例えば、ジャニ-イケメン-ドラマがつまらなくて、京アニが面白いというのは、自分のトライブを示すカミングアウトでしかない。


エンタメという物言いがオミットしてる欺瞞とは、創作物の主体である客という目線でありながら、責任の所在だけは作者に委ねる『クレーマー』的アングルなのではないだろうか。