コミュニケーションはアプリケーション化する

ホストに求められているもの

街をぶらついていると、数年前なら考えられなかっただろう、
ヴィジュアル系の名残を系譜したファッションで溢れている。
その最右翼がホストだろう。多少マイルドになったとはいえV系だ。
今なら誰でもホストになれるのだろう。
ソレと同時にホストに求められているものも、
変化しているように感じる。
以前は、自分がホストである事を隠さざる終えない
といった状況も存在しただろうが、
現在では、自己実現の為に原理的な努力をしている
野望を持ったやつが集まる仕事といった所だろうか。
そしてもう一つ、ホストに求められているのは、
汎用性の高いアプリケーションソフトとしての
実用性ではないだろうか。

ホストの素

ここでいうなら非モテ脱オタに対応する
実利アイテムといった所か。
更にホスト事態を牽引するのは
ジャニーズやヴィジュアルを始めとする
腐女子キラー的なオナペットだ。
一部の人にとっては全く意外ではないだろうけれど
ジャニオタとバンギャルは、
成長のような横断といった形で、盛んに交流が行われている。
 元ジャニオタのバンギャル
 元バンギャルのジャニオタ。
といったものは、そこら辺に明るい人なら
確実に目の当たりにした事があるだろう。

伊達ワルの強靭さ

かつて、ジャニーズやヴィジュアルのハードルの高さが
イケメンに生まれたが故の特権性によって切り捨てられてしまう
といった目線で、非モテ脱オタにとっては、
まったく実用性を伴ってはいなかった(そう見えなかった)
のに対して、ホストの持つ自己実現男子といった
『流されやすい女子にとっての王子様』
のようなファクターが絡む事によって、使える実例と化している。
実際ホストファッションはどんどん安くなっていて
メンズナックルズに載っている服など、
一つコレと決めてしまえば、
一ヶ月バイトすれば、揃える事が出来てしまう。
更に、ヴィジュアル的世界観をあえてはめる事で
ホスト系のトライヴを、強靭にすることに成功している。
例えばそこで盛んにネタ消費されたワードとして
『伊達ワル』というものがあるが、
これは実際にワルい必要は無く、ワルく見せる為の作法である。
例えワルく生きる事が出来なくても
ポーズで幾らでも見せれるレクチャーは
内面より、まず外見からを上手に覆い隠しつつ
急に伊達ワルファッションになった坊やの
言い訳をも確保するという捻り技ではないだろうか。

外見におけるホストとオタクの差異は問題にならない?

これには既に数年も前から実例があり
オタクのホストなんて珍しくもなんともない。
イケメン(風)の男がオタ芸もするし、
ニコ動とか普通に言うし、
らきすたを批評の土壌で真面目腐るといった場面は
数年前から行われているのだ。
そこで生まれる葛藤は、深度か耐久度かであろうが、
そもそも意中の相手を落とすといった行為自体が
体当たり的なもので、傷つけざるをえない行為だ。
幾ら深度が深く、耐久度が高くても
そこではお互いが深度や耐久度の外を要求される。
また相手によって落とし方は違うものに
汎用性の高いものをぶつけるか
局地的なものをぶつけるかの判断も必要になってくる。
ホストを好きな人も嫌いな人もいるように。
嫌いと言いつつ好きな人も、
好きと言ってもポーズだけの人もいる。
この当たり前の事は、忘れてはいけない。
これこそが逆説的に、ホストが汎用性の高いアプリとしての
実用性を求められていることに他ならない。
しかし根っこは一緒である。
アプリは癖も出るが、自動補正もかかる。
使えるものは何でも使ったほうがいい。
しかし見極める力が必要なのだ。
(対異性である事を除けば)見極める力に、
非モテ脱オタ的なメンタリティを持つ貴方なら
負けない自信があるのではないだろうか。

実録・男の子問題

話は多少ずれてしまうが、
ホストの起源にヴィジュアルがあるのなら、
現代の男の子問題の中核は
ナルシスである事に自明である必要があるのではないか。
私はここに閉じた孤独を感じるし、以前から繰り返し書いている、
私の話を聞いて欲しいが、
それが誰にとって有益か明確でない為、誰にも話せない問題。
転じて、何故、人は人の話を聞かないのか。
こんなに話したい人、即ち物語が溢れているのにもかかわらず、
物語に乗る人、即ち話を聞く人は絶対的に少ないのか。
といった所に辿り着いてしまう。


  対岸にいるのは誰か。あの子か、自分か。
  対岸にいる浮浪者の話をあなたは聞くだろうか。
  それが未来の自分だと気付けるだろうか。


非モテとホストは、
コミュニケーションの形式性への依存という
(コミュニケーションのアプリケーション化)
共通の問題を抱えており、
そのバックボーンに、
社会は辛い≒セカイはちょろいといった感覚を
有しているのではないだろうか。
そこには運命史観からくる、一発逆転といったメンタリティが
起因していると私は考えた。

一発逆転

その一発逆転は、既に成熟を迎えた人にとっては恐怖になりえる。
それを例えるならば
いじめられっ子が、かめはめ波を打てるようになる
という事だと思う。
いじめてた奴は勿論、ヤメロよと言いつつも、
アイツなら何かやりかねない。と、無意識に感じてた奴だって
この恐怖に対しては吝かでない。


漫画のキャラクターである悟空だって
長い間修行をしなきゃ、出来なかった技なのだが、
それならいらないというのが今日的リアリティだろう。
即効性のある、努力の要らないナイフが必要なのだ。
だから、デスノートが求められた訳だ。
昼はオタク的なルサンチマンを酷使し、
夜はホストのように、
空気のポジショニングを操る夜神月は(ヴィジュ臭い名前だ)
あれでも本人の知恵というフィルターがあったが、
現実では何の努力もなしで、運のみで世界を征服しかける。
(それが載っていたのが友情・努力・勝利の
 ジャンプなことが事の重要さを物語っている)
自分が弱くてもアプリケーションが強ければよく、
より優れたアプリケーションに乗り替えることで
熟練度すら無駄な要素になるのだ。
ホストはそのアプリとして、
今最も有効的だと考えられているのだろう。

自分探し

という事は、既にインターネットという器で、
アプリケーションを研磨する時代から、
いかにインターネットで探していても見つからないアプリを
見つけるかの勝負に移行しているという事で、
その為に、例えば今回はホストのように
自分の外に自分を探しに行くはめになるのだろう。
最近自分がテレビを見ていて目が覚める瞬間とは、
努力ほど嘘くさいもんは無いという現実を目の当たりにした時だ。
逆に努力が実る時ほど眉唾な話は無い。

お前を殺す

しかし、一発逆転が言い訳やしょうがないに繋がる事は
過去サブカルやおたくが証明してきた事だ。
起業も中退もデビューも脱オタ
デイトレードもホストも一人旅も
自己啓発もビジュアル系もカルトも
インターネットも、全てが一発逆転の為のアイテム(アプリ)でしかなく、
乗り換えは自由になっているとはいえ、
その温床には憎しみや仕返しがあることは常に意識しておくべきだ。


一発逆転とは、仕返しというモチベーションを餌にしてその強靭さを増していく。
何故なら、人は自分が被害者になる為になら平気で嘘を付くからだ。
最初は自分に次は君に。
過剰流動しているのはアプリであって
システムは一気に変えない限り、変化しにくくなっているのかもしれない。
それを補強しているのは、
他ならぬソレを望む自分である事に自覚を持とう。
そこには相互補完的に、抗えない現実というシステムが潜んでいる。

今期ドラマ・アニメレビュー

今クールにおけるアニメ、ドラマを見ていると
抗えない現実を描く、運命論を題材にしているものが多い。
H2Oやシゴフミにおける貧富と家(柄)や。
鹿男における陰謀論や奇跡。未来講師めぐるにおける能力。
それはまるで、絶対変えようの無いもので
生まれた時に人の運命が既に決まっているといった
達観した絶望のように思える。
世の中に何も望まない、何も求めない。
しかし『自分が悪いのは○○のせいだ』
が通用するかといえば、そうでもなく
それはオウムを発端にした陰謀論=宗教であったり。
ホストのような実利を担保にした
自己実現における「努力が足りない」であったり。
物語における主人公のデリカシーの無さであったりと、
言わないというよりも言えない状況があるかと思われる。
その時に物語を演出するものが、能力や奇跡から
汎用性の高いアプリに変わっているだけなのではないだろうか。


最近やっていたドラマで言えば、
紅蓮女がそういったセカイと地続きになった場所に当るかもしれない。
主人公は、運命論的に自分の不幸を嫌っているのだが、
神様(監督)は、奇跡や能力を与えない。信じていないのだ。
主人公の紅蓮女は、選ばれた人間ではなく、転生戦士でもない
コスプレして、マッチで火をつける。
自己責任で都市伝説化する愉快犯的価値観だ(通り魔的といった方がいいのか)。
 むしゃくしゃしたから。
 相手は誰でも良かった。
また自分のナルシスに自明で、閉じた(誰にも話せない)孤独を描く。
という部分も、ホストの話と一致する。
即ち、何故、人は人の話を聞かないのか。
といった部分も読み取れるし、
都市伝説化し、自分の(孤独な)話を聞いてもらう。
といった部分で、
今後、運命論からの脱却を描くのかもしれない。


また貧乏男子の場合も、能力も奇跡も無く、
今までのバックボーンと体で突破する。
また、責任の所在を仮託しない上に、
はっきりと『嫌われたくない』と明言すらする。
このドラマが他とはっきりと違うのは
背負わされた抗えない現実という脅迫観念
(他のドラマには大きく存在するし、主題だったりする)
がまるで無いかのように振舞う部分だ。
用意されたアプリケーションからの脱却だという事を
このドラマを見ているとつい考えてしまう。