音楽の音楽じゃない所

HIPHOPのもつ、狂気の桜とか、レペゼン地元とかの概念と、ヤンキー文化が、ある一定の親和性を保つのは、地元の土建屋に勤めているという風紀があると思うのね。地元の土建業が利権談合の巣窟で、その下っ端が日本を憂うっていうね。


ただ、そこの文化をクラブカルチャーとして捉えたときに、インストレコードとか、MIXCDって概念はすごい自分は評価していて、そこだけはネットよりも何十年も先に実際に実行していて超凄い(パクルけど、俺のもパクリやすくボーカル抜いとくから、皆で勝手にリミックスしてよブラザーwパクルとかそういうダサい概念は捨てて、踊れ!しかも、お金にならない。最近のオーヴァーグラウンドで、やっちゃうMIXCDってのは、どうやってんのかよく分からないし。どうかと思うし。まだ保留って感じだすけども)。んでそういう文化って、地域共同体、村意識から、程遠い思想的実効性を持っていると思うんですよ。


一方、ハードコア系のバンドで一時期RAPメインのヴォーカルがいるバンドが目立っていた気がするのですが(BACK DROP BOMBとか、ヌンチャクとか)あれがそっちに行かないのは、何故か。やっぱなんだかんだ言って楽器を演奏するかどうかってのは、思想と個を断絶させるツールになっているのでしょうか。
AIR JAMB-BOY PARKの違いを多分、皆分かっているんだけど、明確になっていない部分があると思うんだ。
でも、AIR JAMのラスボス、ハイスタの難波が沖縄でスローライフを送るのと、窪塚君が日本を語る事の差異って然程ないような…(右左の違いだけで)
こうなると、薄い思想が音楽系のある種手段になっている気持ち悪さってのは、音楽と儀式の歴史を紐解く必要があるのかな。
この間の、Lifeでチャーリーが多分言っていた、B-BOY PARKで急にアメリカが日本を操縦してる的な、カルトプロパガンダが始まった時の居心地の悪さみたいな。