遠距離型と近距離型のコミュニティ

自分には、共同体主義に遠距離型と近距離型がある事で分かり辛くなっている部分があって、ここでいう遠距離とは、つまりインターネットで行われるコミュニティ主義で、近距離型というのは、学校や家庭で行われる村意識です。少し前までは、近距離型の悪い部分を(ネットで)叩く、遠距離型のコミュという構図があった為、逆に遠距離攻撃をするお前は、近距離で武器を手に取るのか?という問いかけも可能だったのですが、それが以前に斧を手に取る少女の事件の時に形骸化してしまったと感じました(こういう事件がある度、というのが正確でしょう)。そういった物の温床に諸々の今(前?)クールの諸作品が上げられると思われます。


またそれと同時に、近距離であっても、ネットの話の延長線上のような話しか出来ないのなら、おたく達はいつ地に足を付けるんだとか。勿論、その価値には暴力性が内包されているからこその価値だとも言えるので、必ずしも正しいとは限らないですが。そこで、おたくは優しいとか言い出すので。嫌味の一つでも言いたくなります。


その時にフィクションとしてのインターネットのあり方を考えるのですが、昔はネットでぼやいていても、自分の足場でそれなりにやっていくしかないんだから、みんなそれなりに、上手くやってるんだろうという気持ちがあったのですが、その遠近感が狂ってしまう世界でネット上に上げる言葉はどうしても変わらざる終えなく、嘘と嘘の共同体によるユートピアと温さ、連帯の希薄さ、というものでよかったと思うのですが、嘘の正しさみたいのは現行のネットでは通用しないので、じゃあ本当を書けばいいのかというと、それはどう考えても本人の目の前(近距離)で言うべきで、そうなると言葉に詰まってしまい、一般論で切り裂けない分かりきっていないものに、嘘と本当の話を書いて、希望と絶望を同時に問いかけるようなものを書けたらホントはいいのかもしれないけど、教室の隅で俯いている奴に、そんなもんを見せていいのかは分からない。そんな話を書いたところで、『誠氏ね』に勝てるのか?っていう。