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ネットに文を書くことへの距離感と違和感

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CDも本も、手軽でリスクの少ないコミュニケーション手段の一つでしかないから、あえてそちらに体力を使う必要もなく、もっと効率的な人が集まる時間を生きる。体育会系の居酒屋トークが効率的な大人の場だってんなら、俺は死んでもごめんだね。とか思っている人間には、どんな芸術作品よりも、場・空間・環境をクリエイトするのが楽しい、なんて感覚、一生分かってもらえないのかもしれない。その分、繊細さはなくて、デリカシーの欠片もないけど。


かつてそういったリスクの少ない、草食動物ばかりが集まる場というものも存在した。勝負から逃げ続けてきた『ブンガク』や『サブカル』を有するコミュニケーションは遠回りで非効率的。でも、その遠回りには意味があった(その時には)。正直、いれたモンじゃない場のほうが多いし、何よりも気持ちが悪い。だからトリコ仕掛け。脱線してもう一回りしたくらいで、ようやく納得がいくコミュニケーションが取れたりもする。勿論インターネットには、『ブンガク』や『サブカル』だってある。そこでは、遠回りなコミュニケーションをやっている奴等が、管を巻いている。仕事帰りの居酒屋お父さんと同じことが、ネット上で同じ様に再生産されていく。一回、ネットを通して管を巻くのだから、コレは具体例としての遠回りの一例か。何かを発言するという作業において、ヴィジュアル系が、一回メイクをしてから、ぐあーっと怒るようなものと同じだと思う。
だから面白いんだけど。
インターネット自体が、ある側面においてサブカルである以上、インターネットはサブカルで、居酒屋お父さんで、草食系で、遠回りで、気持ちが悪い。


だから、インターネットをやる事で、自分の思い通りの言葉を、自分の場所で好きなだけ時間をかけて作る事が、いかにツマラナイ事かが分かる。もっと深くて濃くて、濃密なものをするつもりの筈だ。だが、この方法論は間違っている。ネットでものを書くということは、モラトリアムを補填させる作用をする。


最近どんどん、はてなに書けなくなってきた。本当に言いたい事があったら、ネットに文章にして書く必要なんて無いから。そいつ呼んで「お前○○だ」って直接言っちゃったほうが早い。ネットには受け手が居て、不特定な訳だから、やる事は全然違うし、ノイズも一杯入れないと、エンタメとして辛いし、やってるこっちもつまんない。


もし何かを分かっていて、「これだっ!」って確信しているものであったら、もう文章にする必要は無い。そんな確認作業に何時間も付き合ってもらうのは、こっちだって腰が引けるし、逆にサブカルの遠回りで、どうどう巡りしてると、脳が麻痺してくる。好きで読んでくれている人は、それでも楽しいかもしれないけど。そういう事すると、後で自分に跳ね返ってくるから。今出来る事は、なんだか分からないものを『分からないという事を分かる』というレヴェルでしかないと思う。