浮浪者の話を聞くか。通り魔を愛するか。

透明な14歳とか、キレる17歳とかの頃もそうだったし、逃げるし、向かってはこない「何で人を殺しちゃいけないの?」と問われた時に「人を殺してはいけないから」としか、答えなかった。誰もそんな答え望んじゃいないよ!自身だって分かっている筈だ。だから未だに、その質問から逃れ切れていないままだ。温いままだ。自分の中の子供の自分が望んでいるのは、そんな答えなんかじゃないって。肝心な質問から逃げているだろ。逃げている自分に気付きながらも、その程度の事しか思いつかない。失望するよ。失望するだろ?「人を殺してはいけない」としか言えないのは、人を殺した事が無い人だけで考えるからだ。それを答える権利を持っているのは人殺しだけだ。何故か?結果を出さないと、誰も話を聞かないし、質問を聞かない。そんな事考えている暇があったら、結果を出せ。ならば、結果を出したものの言葉しか聞こえないセカイでは、ネガティヴな質問には答えられないことになる。パワーゲームのインフレからの決断主義なら。その先に、そこから零れ落ちる人間が、どう振舞うかが問われる。零れ落ちた人間の中には、勿論人殺しも居る。だから、零れ落ちた人間にしか、出せない答えがある。勿論、パワーゲームに勝ち進んだ人間は、何にも関係ない話かもしれない。その格差は何故生まれた?上記したように、結果を出さないと、質問する事も、質問に答える事も剥奪されるからだ。敗北、失敗、挫折、諦念、犯罪、人殺し、貴方の隣の敵を愛せるだろうか?妻を惨殺した通り魔を、娘をレイプした大学生を愛せるだろうか?許せるだろうか?そういった犯罪者たちの言葉を剥奪する権利は、あなたの手にあるだろうか?第三者機関であり、国民の暴力を委託している機関は何故存在するのか?例えば、現状においてのいじめ問題は、いじめをする側にしか答える権利はない。しかし、実際にその問題に耳を開き、頷きあっているのは、いじめられっ子達。だから、その言葉は誰にも届けてはいない。それはセカイを変えなくちゃ届かない。だから「いじめられる側に責任」があるかどうかを決める事が出来るのは、いじめる側だ。という事は、いじめられる側の責任を認めないと、現状ではこの話は前には進まない。どうしても認めたくないのなら、セカイを変えなくちゃ認めてはくれない。大きな世界は変えられなくても、自分の視界に入る、自分の周りのセカイなら変えられるかもしれない。しかし、それが逃げじゃないとは言えないと思う。強引にでも勝つには、いじめられた理由を自分の中に設定した上で、自分に届いた不幸を受け入れ、それを愛せるかどうかにある。勿論、勝ち負けで何かを計る必要は無い。勝たなくてもいい。でも勝ちたいなら、自分を憎み、敵を愛さなくちゃいけない。危なくなったら、セカイに逃げ込めばいい。常に逃げられるセカイを残していよう。耳を塞いで居たら、いつまでも逃げる事になるから。でも逃げる事が必ずしも悪い事ではない。浮浪者の話を聞いている自分が、それに酔っていない事は証明できない。通り魔を愛しても、報われるとは限らない。その二つは同時に行われる事で始めて効果を発揮する。