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世界を繋げる色んなメモ

culture

犯罪・拉致被害者のポジションは、凄く楽な立ち居地。
犯罪被害者の人権というのは、最もな話。
「被害者の気持ちになれ」って言っている人が
傷ついた自分みたいな「僕の内面」を、
被害者の立場にフリーライドして自己表現している。
大阪池田小事件の時、それそのものは置いておいて
学歴社会や格差社会等、社会に投げかけるテーマはあった。
しかし誰も
「あれは自分だったかもしれない」なんて言わなかった。
それは、事件そのものの残酷さとは違うと思う。
少し前なら「社会のひずみが生んだ犯罪」と言っていた。


ちょっとネットを見ても、また自分の狭い生活範囲の中でも
ムカツクとかキレそうとか、態度の表出は見られる。
明らかに被害者よりも加害者のメンタリティを内包している。
勿論その人間が、実際に犯罪を犯す訳ではない。
何を担保にそれを口にするかと言うと
自分は被害者で、一方的に傷つけられた意識が担保となる。
その時、代替的に暴力の酷使を仮託されるのは裁判や刑務所。
「あんなやつは死刑にしろ」「一生、刑務所から出すな」
もし自分が犯罪を犯したら死刑でいいのかと問うと。
「自分はそんな事しない」また
「自分がそれだけの事をしたら死刑でもしょうがない」
とまで言う。
自分が何の理由も無く、犯罪を犯すと思っているのだろうか。
自分がそれ程の事件を犯すときに、それなりの理由があり
それが自分にとってのエクスキューズになる事は想定しない。
社会が武器としての攻撃力を増した一方、
鎧としての活用法は求められなくなってきた。
自己責任で対処できない事は、甘えだと捉えられる。


そもそもネットの掲示板というものは、
どのような立場の人間もが自由な発言を出来る、
民主的な存在なのに。
何故、保守・ナショナリズムに陥るのか。
徴兵制が始まって憲法改正したら、
ネットなんて真っ先に管理される空間。
既にあるものの中に自分を一体化させる事は、
容易で安全な自分探し。抽象的な誇りを担保してくれる。
海外旅行・オウム的なものは許容されなくなっていった。
自分の部屋から一歩出た時に、ナショナリズムの中でも
特にパトリオティズムは、癒しを与える。
同時にサヨクフェミニズムは侮蔑語になった。


若い女の子は「引っ張って言って欲しい」
みたいな事を思っていたり。
キレた彼氏を泣きながら誤って
一日かけてプライド(誇り)を回復してあげる。
強い男は、男の癒しに向けているわけではなく
「こういうのが男よね」という男尊女卑感覚を補填する。
負け犬本は、フェミニズムに対する反動。
作者がそれを自嘲で書いていても
雑誌では「負け犬」にならない為の十か条と扱われてしまう。
奇麗なだけで内面性を持たない女性じゃないと恐がられる。
「今を楽しまなきゃ」。得とか楽という答えを欲しがる。
主婦の方が楽そう、子供を生めば楽。
でも生んだ瞬間に、子供が可愛くなくてとか。
「男女の脳の構造」とかいうとすんなり信用する。
新書は、書き手の権威で信用される。
倫理無き科学万能主義が、どれだけ危険だったか。
つい数十年前話なのに。
高田延彦の遺伝子を残したい」というのは「優生学」。
それが美談になり「そんな事も国はしてくれない」となる。


日本の伝統の替わりにアニメが国策産業に。
世界に誇ると言っているそのマンガには
ロリコンやひきこもりやインセスト・タブーもあるのに。
それでも世界の誇るって言える覚悟はあるのか。
何故「アニメを見たら人を殺すぞ」と言われなくなったのか。
芸術祭の賞をとるような作品が
人を殺人に駆り立てるような事だってある。
宮崎勤の部屋には宮崎駿のアニメが全部あったわけだから。
ロードオブザリング自体がマニアックなものだった。
その宣伝に10億近く突っ込んでる。
レアものとかの価値と言うものは、
差異化によって捏造できる。
レアもの作ってますよって、
本人が言っちゃっているのに、ちゃんと動いてくれる。


そもそも本なんて誰も読んでいない。
情報として処理される。
この本はこうとか、ネットの評論で適当に評価が決まって
読んだからクリアみたいな。