セックス以上セックス未満

おっぱいの価値は落ちている。
AVにしてもエロ本にしても、売上数が伸び悩んでいるらしい。
それはAVやエロ本が抱えるリスクに比べ、
おっぱいを見る代償が高いと思われている為だろう。
が、非モテを始め、ネット上の論議を眺めていると
生身のセックスはその価値を失うどころか上げている(ように見える)。
それはまず、生身の女性とのセックスに価値がある
という前提が存在するからだろう。
しかしそれは、上記したようなおっぱいの価値そのものではなく
コミュニケーション的価値がメインになってると思える。
売春には身体とコミュニケーションといった
二つの売買が存在するという事実。
これは忘れられてはいけない。
現状の市場原理で
『カラダは買えてもココロは買えない』
という考え方は、全くもって構わないのだけれども
そうではない、人間が存在する事には理解を求めたい
(数千年の歴史を盾に翳して)。
少なくとも『私の』との表記は必要だと。
売春婦への職業差別へと繋がって解釈される場合がある。


元来セックスの快楽は、責任というリスクと隣りあわせだったが
そのリスクが軽減される事によって、
(コンドームや、エロ本、AV。或いは、労働環境や差別)
売春という職業が発展していったのだと思われます。
しかし文明が生まれ、売春が生まれて以降
文明は近代化され、子供を生むことと
セックスは決して直結しなくなる。
そしてそうなると、
セックスそのものの価値や定義があやふやになってくる。
挿入か射精か相手の問題にもよるのか。
スキンによる性交は、セックスと呼べるのか?
この土壌において、セックスの定義は広義と狭義に分かれ
それぞれの価値観でセックスを捉えていく事になる。
こうなってくると、売春差別というのもありえると思えてくる。
つまり、子供を作らないセックスはセックスではないという
セックスの定義をココロの経典にしている価値観は
その存在を否定されるべきではないと思えてくるという事だ。
どんどんキリスト教原理的な話に近づいていくので
そういう話は避けたいのだけれど、
例えば、非モテキリスト教原理主義者の親和性から
非モテは、キリスト教に入って、ストっちゃいなよ?
みたいな所まで、楽しい妄想は広がる訳だけども。
書き残すレベルじゃないかもしれないな。
閑話休題
売春以前に行為としてのセックスの定義が
多義的に理解されていて、売春婦への差別という問題は
セックスの定義に起因しているのではないだろうか。
そしてそのどちらもが存在する世界を肯定するのならば
差別は純然たる事実として存在する事になる。


その上でAVって売春なのだろうか?


※日本では売春防止法第3条により売春は禁止されています。
 が、行為そのものは、刑事処分の対象とはなりません。
 又、児童買春については、逮捕・処罰を受けます。