演歌の教室

何故女王の教室はよくて(苦情が多かったらしいけど、それも含めての人気)、演歌の女王が人気が出ないかと言うと、視点が定まらないからだ。何故、視点が定まらないか。その理由はこの一点に尽きる。真矢という絶対悪がいない事(厳密には絶対○○が無い事)。画面に移らない、ゴールが見えないことで、どこからどこまでを見ていいのかが、視聴者側が把握しにくくなっているせいです。だから、今から直すのは難しい。正直自分は、女王の教室演歌の女王も普通ですけれど、逆説的に、そこまでつまらなくは無いだろ。って熱くなってるだけですので、ファンもアンチもお気になさらずに。この時間帯はハゲタカが気になる。


もし、あり得ない展開が多すぎるとか言われてたら、それ程的外れな事はない。寓話として見せる事で(メタリアル的内面)普遍を描く為にそれは、あり得なく造っているからです。これを、あり得る話にしてしまったら、多分5年後にはもう、何の価値も無くなってます(それがいけないとは思いませんが)。そして、何故誤解の受けやすい寓話的作法を用いてまで、普遍性を求めるのかというと。性格を描く為です。何故なら、性格は普遍的なもんだからです。


例えば、チャンスを捨ててまで、仲間を助けるって美談の裏に、仕事を途中で投げ出して、現場に迷惑をかける。とか、そういう所が『何かムカつく』に繋がっている、っていう事を、キチンと抽象していたりする(演出としては、全く無かったけども)。


ひまわりは、(本当は)良い人でも、
ダメな人(ダメなのは周り)でもなくて
『善良なウザイ人』って描き方が、
もっと上手く出来ないものなのかな…
それを露悪的じゃなく、コメディで描きつつ
何故ひまわりは、人生失敗しているのか。
結果的に良い人と呼ばれた"おせっかい"(女王の教室神田和美)は
果たして人生成功だったのか。
それに当る何かを、どちらが持っているか、
或いはどちらが持っていないのか。
そもそも、違いはあるのか、無いのか。
幸、不幸を運のせいにしてしまうのか。
それは逃げではないのか?
不運を呼び込むには、それなりの構造的理由があり、
それを洗い出せるのか?
そこらへんの、凄くシビアな事を描かざるおえなくなる。


だから最終話は、夢オチがいい。
というか、逆説的に夢オチを成立させる為に
(夢オチは即ちダメといわれる雰囲気へのカウンター)
この話はあるんじゃないかとすら、最近思ってる。
いや、実は成功しているひまわりの夢ってだけじゃなくて
最初の入院の時点で死んでいて、最後に妄想しているとか。
子供の時に、植物人間になったひまわりが…とかでもいい。
そういう要素を複合的に絡み合わせて、
幾らでも面白い話に出来る。
しかし、この糞ドラマと言う風評の上で
それやったら、プギャー確定だけどな。


やるとしたら多分、最終話から2話前辺りでやりそうだけど。
それは一本の線として、キチンと描いてくれるのだろうか。
いや、全部妄想だけど。