FREEDOMを見て感じた、大友克洋的サブカルと、超越的みうらじゅんの話

カップラーメンのCMでお馴染みFREEDOMを見ました。
大友克洋の絵だけど、監督は違う人らしいんだ←ココ重要


なんか最初思ってたのより、すげぇ絵とか綺麗で、オープニングなんか、超好みで。漫画のまま動くアニメとか、本編の3Dに2Dくっ付けたみたいのよりいいんじゃねぇかっていうwでもまぁ、そんな思ってたほどの違和感は無かったし、あー言う絵を切り捨てるにはちょっと早計かなって思った。背景の書き込みなんか、やっぱ半端無いし。話も既視感があったけど、取り敢えずはこんなもんかな。何だかんだいって、大きい物語*1に対する、レジスタンスって話は、普遍的エンタメとして享受され得る、耐久度がまだ存在している事の証になるかもしんないね。なんて言ってただろう、80'sなら。


こんな事、今更やっててどうなるんだ。第一印象は、そのまま合いも変わらず同じ事をやり続ける大友克洋って感じだったし。この世界観はそのままファイナルファンタジー的価値観として流用する事も出来る位の、一時代前のエンタメ。本来ならこの席には黒田硫黄が座ればいいじゃんって思うし*2。もっと言えば、まだドラえもん的なものはドラえもんだし、サザエさん的なものはサザエさんのままだ。仮面ライダーは、未だに冠に仮面ライダーが無いと成立しないのだろうか?
そういった意味で、サブカルチャーって構造が既にもう死に体であって、例えばアメリカにおける星条旗のような、超越的な存在に代替可能な、田吾作が帰依できる価値観は、日本の文化には存在しえなく。それがまるでサブカルチャーがジャパニーズ・センスとして流通しえるかのような意味性は、その耐久度がすでに無いものとしてのFREEDOMが強調されているだけに思える。とか言ってたんだろう、90'sなら。


しかし、実際問題サザエさんサザエさんとして存在しているのであって、"アニメ"のサザエさんなのかと言われれば、既に"アニメ"って冠は取れている事は自明なんじゃないか。それは、それこそ星条旗に値すると言う意味で。
例えば寅さんは、渥美清だったのかもしれないが、サザエさんは声優さんが、お亡くなりになっても、サザエさんであるように思える。それを証明するかのようにドラえもんは、いつ、なんどき、どんな状況であってもドラえもんだ。それに反して何故、ルパン*3は、どれだけ完成度が高かったとしても、星条旗(超越的な存在)にはなれなかったのだろうか。まぁよく知らないから語りませんが。
そこでFREEDOMだが、あの変な3Dのせいで違和感が残るが、背景の凄まじい書き込みにおいて、大友の血をそこらじゅうに感じる。絵に関して言えば、大友の絵が部分的*4に普遍化出来た気がする。だが、例えこの絵が全く違うものだったとしても、これが大友の作品だと感じる事は出来たのではないだろうか?それは前述した<合いも変わらず同じ事をやり続ける大友克洋>と言う部分で、私が超越的な何かを、その物語性に見出してしまったからではないだろうか。これは、面白いつまらんとか、古い新しいって話とは別で。大友がお茶の間化しているんじゃないか?っていうか、*5そこを目指す過程で生まれた布石と考えれば、実にしっくり来るんですよ。そういったモノが、大友ではない監督によって作られている。受け継ぐ事が可能だった。世界観と背景に関しては、大友的価値観を普遍化というか、お茶の間化する事に成功しているのではないでしょうか。それはジブリが持たず、サザエさんドラえもんが持ったモノとして考えたい。
ゼロ年代的価値観の主題は、お茶の間化ですよ(平凡化とか普通最高みたいな)!


前述したような理由で、アメリカにおける星条旗を持たないからこそ、日本のアニメを始め、お笑いや漫画や音楽が捩れた構造を持ち。その構造によってエッジを磨いたと思われる、サブカルチャー。しかし、それは実際90'sにおいて、かなり死んだと感じている。それは、『みうらじゅん』を長年体感していて、ゼロ年代に入ってから強く感じ始めた事だ。今やその存在は、みうらじゅんの持つ面白さ以上に、その肩に仮託されている『サブカルチャー』というものの存在が、個人的には物凄く邪魔だと感じてならない*6。もしやそれって、サブカルの危さなのではないか、と最近考えている*7。この場合取り敢えず、『みうらじゅん』と評したが、それは山田五郎であり、泉麻人であり、安斎肇である*8。私がここで強く言いたいのは、ゼロ年代における『みうらじゅん』とは、ジャンルでありアニメ、漫画、と並ばせて、みうらじゅんと書くべき存在なのではないだろうかと言う事だ。こーいうの危ないけども。
今ほど、『みうらじゅん』について語る時に気を使う時代はない。正直書き辛い。しかし、本来ならみうらじゅんと、それを嗜好する人間との間の関係性はもっと問題視されるべきだ。それは、みうらじゅんの下の世代が、前述したように90'sにおいて死んでいるという事と重なる。浅草キッド伊集院光電気グルーヴ*9。彼等は、総じてみうらじゅんの次世代を背負った世代だ。しかし、そのどれもこれもが、全面的にサブカルチャーを背負っているかと言われればどうだろう。私はそうは思わない。背負う事を拒むものや、視界に入りながらも無視するものや、別の世界に身をおいているものもいる。彼等は、サブカルチャー及び、それに付きまとう軋轢に身を切り裂かれた人間ばかりだ。もうサブカル少年少女の問いに答えてはくれない。別の道から、過去サブカル的だった少年少女を仮託する道を見つけ始めている。勿論、童貞スピリットとかいうものも、過去のそれとは、全く姿かたちが変わってしまったし。ファウストや、NANAがサブカルかと問われれば大声でNO!と叫ぶだろう*10。様々な、サブカル的なものは、所謂『おたく』的なものにぶち壊され、みうらじゅん的なものは極一部の異形か、メジャーカルチャーへ意識的にスポイルされながら*11、神輿に担がれている。苦笑いで。
「諸君らが愛してくれたサブカルチャーは死んだ。何故だ!?」
「坊やだからさ*12


ここで〆ようかと思ったんだけど、もう少し。個人的な想像だが、この一連のみうらじゅんの気持ち悪い神格化には、ある要因が絡んでいると睨んでいる。それは、ナンシー関の存在だ。その席は未だに空席。突然の死であった為、ナンシーが持っていたサブカル的なものまで、みうらじゅんは背負っているのではないだろうか。この想像が、最近確信に変わったのは、M-1グランプリに唯一の素人として出場した『変ホ長調』を見た時に、TV Bros.臭を嗅いでしまったからだ*13。ナンシーなら、あの位置をどう進化させたのだろうか?自分の目に映った『変ホ長調』の存在は、あそこから一歩も前に進めないまま*14ナンシー関の面影だった。
今のサブカルチャーにはナンシー関が足りない。

*1:この場合、月を管理する大きな力みたいなの

*2:他にも山本直樹松本次郎が居るべき席にまだ座れていない違和感がある

*3:ジャパニーズセンスの雛形と言われる、宮崎駿的な価値観

*4:背景とか

*5:大友自身がかどうかは分からないけど

*6:それはそのまま超越的{星条旗}足りえる理屈でもある

*7:みうらじゅんは、天皇なのか?三島由紀夫なのか?また、個人に超越性を仮託する危さ

*8:あと小沢健二とか、いとうせいこうとか、近田春夫とか。藤原ヒロシとか、高城剛とかはどうだろう微妙だなぁ。杉作J太郎大槻ケンヂは保留。

*9:ここに吉田豪ロマンポルシェを入れてもいいかもしれない

*10:どちらかといえばプロジェクトXの方がサブカルに見えてしまうし、クドカンは?涼宮ハルヒは?最近じゃ、オレンジレンジってサブカルだよな。とすら思える

*11:メジャーの媒体を通さないと、おたく的な価値観に駆逐されてしまう

*12:一部芸人のせいで、ガンダムが糞ネタになっちまったじゃねーか!

*13:これはかなりの人間が感じた筈だ

*14:どころか退化していた