公か私かは、ネットによって可視化され、欺瞞によって醜く歪む。

公的か私的かは、ネットにおいて
対立概念が成立しないように見えるが。
ネットサーフィン(懐かしい)をしていて
感じる違和感はその範囲内です。
ということは、インターネットって存在自体が、
グレーゾーンの集落だって事です。


私は、友達と話をしていて、
『家の中じゃねーんだから、公共の場でそんな話すんな』
という態度をとり、本人に言葉で伝えます。
その内容は、仮面ライダーだったり、涼宮ハルヒだったり
特にエロや下ネタに関してよく注意します。
女子高生が、デカイ声で話しているだけで
眉間に皺が寄る人だっているのです。
とても面白い話だとしても、公共の場における
見知らぬ他人の言葉には、ムカムカするものです。
(笑い声が、自分への中傷に聞こえるとか、その類)
勿論、一人一人別々の人生を歩んでいるので
その全てに配慮していたら、会話なんて出来ないし
絶対的に他愛も無い会話というのは、とても難しい。
じゃあどうすればいいか。
身の程を弁えた行動をしなさい。
それが普通のオトナというモンだ。


しかし、友情や仲間といった少数単位への連帯感は
公共における、私的言語の確認を連続させる事にあります。
『家の中じゃねーんだから、公共の場でそんな話すんな』
というやつを、あえてする事で
友情や仲間といった少数単位への連帯感は生まれます。
 一人でそういう事を話している人は、キチガイと言われます。
だから公共のスペース以外、他人の目が無い所で、
殊更に、それらはアピールされる事はありません。
笑い声が、自分への中傷に聞こえるというのは、
それと裏返しで、ぴったり重なります。
そこにおいては、迷惑である事、
中傷になりえる事が前提に置き換わります。
例えば、女子高生のギャル文字。へた文字。方言。
それは、友情や仲間といった少数単位の連帯感を
概念的に設定している故に起こりえる流行です。
友情や仲間といったアイデンティティ
絶対的なモノにし過ぎてしまう危険は、
ここでは省みられなくなります。
だからこそ、私にとって、このギャル文字と
おたくにおける、アニメの話題やネット用語は
同列にあり、同等に冷やかな印象を持ちます。


しかし、インターネットで自分は、
その類の話題によく言及しています。
ネットは、セミ公共の施設です。
声の音量は無いですが(リンク数だったりしますが)、
個人の部屋を通じて繋がっているとしても、
好き勝手に何を話しても、
迷惑が掛からない場所ではありません。
 これは、TVメディアにおける投書とリンクします。
私個人の中にも
そういった欺瞞は確実に存在します。


久しぶりに個人的な話しになりますが、
私はこのBLOG単体で、ホームページを成立させるつもりはありません。
そして、プロフィールその他もろもろの情報を
ネット上に開示する事は、恐らく一生ありません。
出来る事なら、個人的にも教えたくありません。
一人でも多くの現実の知り合いに
ATOM-AGEとしての存在や、このBLOGや
個人ホームページvelvet deathを知られる事は物凄く屈辱的で、
出来るうちにひっそり移転するつもりです。
その後は、現実の知り合いの誰にも教えません。虫酸が走る。
 その時は『最近更新しないね?』「忙しいから〜」
 とか、言ってやります。
それが、グレーゾーンの集落であるネットに対する
ATOM-AGEの距離のとり方です。
ちなみに現実の私は、上記したような理由から
友人と馴れ合う事が大嫌いです。
少数単位の連帯感の為に、確認作業を繰り返し
絆を深めることで、結果的に個を歪め、
社会への迷惑が前提になってでも
絶対的なモノ(この場合友情)への
担保を借りるような付き合い方はゴメンです。
恋人においても、それは一緒です。


現実の生活で、自分は相談を持ちかけられる事が殆どありません。
それは、人の話を聞かない。頻繁に嘘を付く。
すぐ飽きる。それを顔に出す。為だと思いますが
ことATOM-AGEは、相談を持ちかけられる事が多く。
その時に(ネットでの相談なら)絶対に話す事があります。
 "大好きなモノがあるのなら、それを絶対的なものにするな"
おたくの話題に顕著ですが、勿論それだけではなく、
彼女だとしても、タバコだとしても
Flipper's Guitarだとしても一緒ですし
宗教はその最たるものな上、象徴でもあります。
これに付随して、
 自分にとって都合のいいモノは信じるな
とか、
 自分の好きな(得意な)分野では、群れるな。
とか、色々適当な事を言ってきましたが、同じ事です。


だから『俺はおたくだ(或いはだから)』とか、
その類の無駄な宣言、アピール、自意識、
ポリシー、プライド、男なら、女なら…全くもって厚顔無恥
おたくの言う、サブカルとかモテとかギャル男とかでも
おたく的な部分・要素は持っている。
それがどうして全体として存在し、
個人のアイデンティティになっちゃうんですか?
それは、サブカルでもギャル男でも一緒。
『俺ギャル男だから』ってのには違和感がある。
違うでしょ。あなたはギャル男じゃなくてもあなたでしょ。
ギャル男的要素だって、誰にだってある。
あなたが「無い」ったってある。
○○だからってのは、言い方の一形式でしか無いけれど
其れはやがて(個人よりも先に、前に見せ付ける事で)
自分と絶対的なモノの連帯感の為の、確認作業になり
人への迷惑が前提になってでも
絶対的なモノへの担保を借りる作業になってしまう。


それを愛しているのなら尚更。
芸術ってやつぁ、
孤独なモノ(個人的なモノ)に対してのみ有効な言葉。
誰かに見せたり、聞かせたりするモンじゃありません。
自分の為に、自分のサイズでだけ存在するものが
芸術と呼ばれるに相応しい器を兼ねているのです。
誰もが、自分だけが覗き見したつもりだったのに
インターネットはそれを可視化してしまった。
これは、充分な罪です。
そういった土台が明文化されているというのに、
公共の場で実際に(愛を)語るなんて
自分の愛しているものに対してされたなら、
耐え切れない程の侮辱です。
自分が大好きな、愛を持って接しているものというのは
家でひっそりやるもの。
それが芸術に対する愛であり、敬意ってもんです。
だから愛ってのは、孤独なんですよ。