プロレスと神媒体、前田日明。

この間の週プロのヤスカク欄について
知り合いが、怒っていたのですが
どうも、こういう内容らしい。
 BMLは、落ちるべくして落ちた。
 しかし、我々週プロは
 BML並びに前田の記事を、
 俯瞰した意見で冷静に分析していた。
 だから、こうなる事は予想できた。
と、いった内容だったらしいのですが。
それはちょっと、おかしいんじゃないか?
ジャーナリズムとしても、プロ格談義としても。
という、ことらしいです。
自分は読んでいないので、難しい所ですが
コレが本当なら、週プロはもう
レスラーと言葉でプロレスする事の放棄を
宣言しているとも取れます。
いや、ずーっと前からですが。


格闘技を始め、プロレスとは
戦う姿を人に見せると言う事を体現する側面を
表側にしている競技だった筈ですが
そこには、男(?)の持つ普遍的な力への欲求を
代替させる事が、そのものずばり強さを見る
と言う事に、変換されてこそだという勝負論が不可欠で、
それこそがストロング・スタイルだった訳です。
そこに屈託やケーフェイを持ち込む事が
近代プロレス感に、直結されて意識させられている
という現実をどう受け止めるかが、
プロ格及び、プロレスジャーナリズムの問題でした。
強さって何だ?と、再び問いなおそう。再構築しよう。
という、動きですね。


しかし、何の競技が一番強いか?誰が一番強いか?
は、最強論としては機能してくれなくなってしまった。
何故なら勝負を決する事が、
強さを証明する訳ではなくなってしまったから。
肉体的な強さを測るならピストル持ってる奴が一番。
と言う、よくある話しになり
核ボタンを押す事の出来るポストに座る事が
最強になってしまいますし。
精神的強さを測るのなら、
目ん球や股間を、躊躇無く引き千切れる奴が
最強と言う事になり、
幾らボコボコにされようが、相手の情報を見つけ
家族や親類、友人や恋人の家を放火できる精神力。
それこそが強さで、
極端まで行けば、それだけの事をされても
絶対に負けを認めず、自分で自分の腹を裂く事が
(相手に自分を殺させない事)最強と呼ばれます。
というか、五輪の書葉隠の体現する武士道とは、
元々そう言った、間違いを認めない覚悟のススメなのです。
武士道を英文で著した新渡戸稲造
「武士道とは勇猛果敢なフェアプレーの精神である」
と、曲解させてしまうまでは、事実そうでしたし。
人によっては、武士道とはフェアプレーから最も遠いのです。
だから「いつ死んでもいい覚悟で生きる」
とは、現代語訳の武士道と言えるでしょう。
まぁ、人それぞれが、自分の言葉に訳して読めるからこその
ベストセラーなわけですから、それでいいけど。
この元々の武士道は、グレイシー一族のように、
ルールにいちゃもんをつけ
兎に角、負けたと言う事を自己認識しない。
という形で、現実に体現されています。


しかしそれは、現代社会の上で、
リングの上では、決して答えを出せない類のものです。
業務上過失致死か、何かじゃ無いんですかね、それ。
プロレスや格闘技の道場では、道場破りに
「死んでも文句言いませんカード」に署名をさせますが
そんなもの、法律上なんの効果も無いでしょう。
というか、一種の威嚇な訳ですね。
しかし、だからと言って、世界情勢を見て
アメリカが最強だ、いや最近中東も懐刀を手に入れた
などと、格闘論(核討論)で楽しめる人もいるでしょうが
力への欲求を強さに代替させる勝負論、
といった欲求はそこでは満たされません。
だから、プロレスはその為の輪郭を形成させていたのです。
その為の輪郭とは、強さを巡るリアルへ向かったベクトルの
リアリティとの境界線だと自分は考えています。
が、近代プロレスジャーナリズムは
ケーフェイに習った、八百長論が主流です。
端っから八百長だった物に、勝負論を持ちこませて
これは八百長、あれはガチ。
といっている時点で、話しが、摩り替わってるのですが
多角的な強さとは?から、
○か×かの二元論に次元を落としこまないと、
成立しないコンテクストが、
近代プロレスジャーナリズムなのですから悲しくもなります。
その八百長論を詳しく分解するとこうなります。

プロレス(元ストロングスタイル)
「これは八百長、あれはガチ」→「八百長はつまらない」→「八百長だが面白い(受けの面白さ)」→「八百長とガチの区別は、当事者以外よく分からないじゃないか」→「八百長とは、試合が終わった後に観客の頭の中で作られる物だ」→「勝敗ではなく内容が充実していたら面白い」→「面白けりゃいいじゃん(八百長でも)」→「プロレスというルールの中で技を競い合うガチの競技だ」

プロレス(エンターテイメント、ショウ)
「これは八百長、あれはガチ」→「八百長はつまらない」→「八百長だが面白い(受けの面白さ)」→「八百長だから面白い」→「ケーフェイを利用して楽しむメタプロレスとして、リング上の勝負論じゃなくて、観客(社会)との勝負論を楽しもう」→「客の為に楽しい事ならなんでもいいじゃん」

格闘技
(略)→「八百長とは、試合が終わった後に観客の頭の中で作られる物だ」→「誰が何と言おうが、俺の目で見てガチならガチ」→「ガチなら勝負論が成立する」

といった感じだろうか。
勿論どれが正しく、どれが間違っている訳でもなく
観客の見方が多様化したに過ぎないかもしれないが
多様化に伴ない、新たな人種が増える訳でもなく
観客の絶対数は増えないままに、
アングルが多様化すると言う事は、
それぞれが、シュミラークル化せざる終えない。
そういった問題点も、当然存在するだろう。


ここで最初の週プロの話しに戻すが、
雑誌とその購買欲とは、新たな輪郭線(強さの価値観)を
教えてもらいたいと言う欲求である訳だ。
現在では大体、
上記した3パターンの順序入れ替えのバランスで
全ての団体をグラフ化する事も可能だろう。
しかし、プロレス雑誌も
それにそって多様化しているからには*1
発行部数は、どうしても減少する。
そこで、売上を伸ばす為に、
全ての雑誌が、前田を客寄せパンダにしたではないか。
それが成立すると言う真理に
前田が、新しいリアリティの輪郭線を提示できる
最後の大物といった、アングルが作用していなかったのだろうか。
前田が、何か口にする事で変わるかもしれない、と。
前田なら、プロレスを面白くしてくれるかもしれない、と。
又、そういった欲求を購買層が持っているかもしれない。
そういった事に、自覚的でなかったのならば、
購買欲の本質を理解していないと言う面に置いて
ジャーナリズムとして失格だろう。
そこに自覚的でありながら、冷静に分析していた
と、嘯くのなら、プロ格談義として失格だろう。
紙を使ってプロレスをする
と言う事の放棄に他ならないからだ。
もう前田を囮に、
新しい世界の輪郭を提示しているかのように見せかける事は
一切しない覚悟がある、とでも言うのだろうか。
そういったものすらも、
ジャーナリズム*2だと言うのなら
前田が人の目の触れる場に復活してから今までに
週プロ側が、何か別の新しい輪郭を
その片鱗だけでも、購買層の欲求に添った形で
提示してきているのだろうか。
それとも、冷静に分析し、ほらダメでしょ。
と、読者に語りかける事が読者の求めている、
強さの輪郭だとでも言うのだろうか。
いや、違う。
それは、処世術であって、強さでも何でもない。
それでもこれがプロレスだ、と言うのだろうか。

*1:一社ごとの雑誌数を減らすという事も多いに考えられるべきだ

*2:報道を通して見る新しいアングル